かっていると、するすると障子があいて、あたらしいお針頭のおしんが、顔を出したのだった。
お駒ちゃんは、泪のいっぱいたまった眼で磯五を見上げてから、みだれていたじぶんの裾に気がついて、膝のまえを直した。磯五は、あわてて手をおろして、笑顔をつくっておしんを迎えた。おしんは、しとやかにはいってきて、磯五のまえにすわった。
おしんは、堅気のような、堅気でないような、ようすのいい年増であった。細ながい顔であったが、眼がおっとりしているので、鋭い感じを消していた。おしんは、はじめは気がつかないふうだったが、おじぎをして顔を上げたとき、磯五を見て、びっくりした声を出した。
「おや。あなたさまは麻布の馬場屋敷の旦那様ではございませんか」
磯五は、それを聞かないふりをした。
「わたしが磯屋五兵衛だ。これは妹のお駒です」
おしんは、ともかくお駒ちゃんのほうへ挨拶をしたが、お駒ちゃんは、ぽかんと口をあけて、磯五とおしんの顔を見くらべていた。
「お名前が変わっていますもんで、ちっとも存じませんでございました」おしんは、うれしそうにつづけた。
「もう三年になりますねえ。わたしは、馬場屋敷のそばにいて、しじゅうお内儀さまの高音様にお仕立てものをさせていただいておりましたおしんでございますよ。旦那様は、おしんをお忘れでございますか。いろいろ御厄介になりましたおしんでございますよ。
この磯屋のもち主が変わったということは伺いましたけれど、旦那様がおやりになっていらっしゃろうとは、存じませんでございましたよ。またこのたびはこちら様に働かしていただくようになりまして、やっぱり御縁があるのでございますねえ。不思議な気がいたしますよ。高音様はいかがでございますか」
磯五が、どうこの場をつくろったものであろうかと考えていると、お駒ちゃんが顔いろをかえて進み出てきたが、そのまえに、おしんがいい続けていた。
「そういえば、いつぞや高音さまにお眼にかかりましたことがございますよ。神田のほうで、でも、へんでございますねえ。旦那がこの商売をおはじめになったことは、高音さまは、何にもおっしゃいませんでしたよ」
お駒ちゃんが、はげしくふるえる声をはさんだ。
「この人には、おかみさんがあるの? こないだ神田であったんですって?」
「はい。お妹さんでいらしって、ご存じないのでございますか。高音さまとおっしゃるおうつくしい奥様がおありでございますよ」
「まあ! あきれかえった――」
何かわめき出しそうにするお駒ちゃんを、磯五は、いそいで部屋のそとへ押し出すようにした。
「お前は、気がたかぶっておる。部屋へ行って、やすみなさい」
そして、泣き声をもらすまいとしてくちびるをかんだお駒ちゃんが、廊下を立ち去って行くのを見すましてから、磯五は、むずかしい顔をして、おしんの待っている居間へ引っかえした。おしんは、あっけにとられて、磯五の顔を見あげていた。
磯五は、しずかにいった。
「妹のお駒なのだが、どうも逆上《のぼせ》気味で困ります」
六
「はい。これは、いらっしゃい」磯五は、あらためて、おしんに挨拶をはじめた。
「なるほど、おしんだ。いやよくおぼえております。おしんという人が、お針頭に来てくれるということを聞いたときは、お前さんとは気がつかなかったが、こうして顔を見て、名乗られてみると、いかにもおしんさんだ。いやなに、高音のことで、いまちょっとごたごたがありましてな、お恥ずかしい次第だが、弱っております。何か気に入らんことがあって、高音が家を出たのです」
「まあ、道理で、久しぶりでお眼にかかったのに、高音さまが、旦那様のことをおっしゃらないので、妙だと思っておりましたが、そういうわけでございますか」
「何でも、じぶんの好きなように暮らすのだとかいいましてな、ただいま別居していますよ」
「それはそれは、お困りでございましょうねえ。あんなおとなしい高音様が、どうしてそんなお気になったのでございましょう。でも、おっつけ人でも立ててお帰りになることでございましょうよ」
「そう思って、待っているのだが、まあ、それはそれとして、用のはなしにかかりましょう」
仕事や給料のとりきめをしながら、磯五はあわただしく考えていた。
このおしんが、昔のじぶんを知っている以上、そしてまた、高音に会ったりしているのだから、この女を放しておいて、勝手にしゃべらせるのは、じぶんにとって危険でないことはない。しかし、いまいった高音の家出のつくり話を、おしんは信じるであろうか。ふたたび高音にあうことがあるであろうか。じぶんから、好奇心をもって、高音を探したりすることはないであろうか。
磯五は、いろいろに考えたすえ、こういう女は、手もとにおいて、しじゅう限を届かせてにらんでいるにかぎると思っ
前へ
次へ
全138ページ中61ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング