離し、われとわが命をけずるような苦行であるが、さて、その苦行を何年つづけても、どうなるものでもない。こころのやわらむということは、ないのである。と、今度こそは、龍造寺主計もさとりましたよ。町人として、掛川の仕事におちつくつもりでおる。すぐにとはいわぬ。このつぎ出府するまでに、もう一度考え直してはくれぬかな」
お高は、黙っていた。お高は、恩があるだけに、この無邪気な人の心臓を傷つけたくなかった。が、それと同時に、何か新しい借りに落ちこんだような気もちは、いっそうひろがって行くのだ。お高はいつも誰かしら男の人に、何らかの形で借りがあるように運命づけられているように、じぶんを感じた。
お高の恋する若松屋惣七を助けた龍造寺主計が、いまお高を恋しているのだ。が、いかに思われても、この借りだけは、返すことができない。お高は、苦しくなった。お高は、泣き出したかった。
「いいえ、龍造寺さま。考え直せとおっしゃっても、考え直すことがないのでございます。とうていおことばにしたがうことはできませんのでございます。どうか悪くお思いくださいませんように」
龍造寺主計は、べつに怒ったふうもなく、いきなりたち上がった。
「さようか。ぜひもない。しからば、友として、長くつきあってもらいたいな」
「はい。それはもう、あらためて高からお願い申しあげますでございます」
龍造寺主計は、縁から庭へおりようとして、ふりかえった。
「ひとつ、ききたいことがある」
「はい。何でございます」
「あんたは、若松屋惣七どのを、思っておらるるのではないかな。若松屋惣七殿と、いっしょにならるる気ではないかな」
お高は、思い切って、はいさようでございます。事情があって、今のいまというわけには参りませぬが、いずれは晴れてそういうことにと旦那様がおっしゃっていてくださいます、と、口に出かかったが、龍造寺主計の真率《しんそつ》な視線を浴びると、つと舌がためらった。それにたとえ名だけにしろ、磯五という良人のある身が、そういうことをいっては悪いであろうと思い返された。
うち消すよりほかないのだ。
「旦那様となど、そういうおはなしはすこしもございません。ございましても、わたくしは、いやでございます」
「さようか」
「あの、もうじき縫い上がりますでございますが、のちほど、お部屋のほうへお届けいたさせますでございます」
龍造寺主計は、お高が、あわてて話題をかえたことに、気がつかなかった。龍造寺主計は、若松屋惣七とお高を張りあおうと思っているわけではなかった。ただ正直な女が、正直な問いに、正直に答えられない理由はないと信じているのだった。
龍造寺主計は、お高の答えをそのままとって、お高は自分を好きなのと同じ程度に、若松屋惣七をも好きなのに過ぎない。じぶんと若松屋惣七は、お高に対して、高低のない立場にあるのだと解釈した。そして、何かしら、安心のようなものを感じた。それが龍造寺主計に、あたらしい希望を与えた。
正直な心は、他の正直なこころによって、いつかは、かならずひとつに結びつくものであると、運命的に楽観していたかった。そんなふうに考えるのが、その広い正直な心をもつ龍造寺主計だ。どんなことがあっても、早晩お高を妻に得ようと、倍の決心を固めて、元気よく庭のむこうの離室《はなれ》へかえって行った。あくる朝は早く東海道にたつのだ。
もし、このときお高が、ほんとのことを打ちあけさえすれば、その後、幾多の悲痛と苦悩は、この三人のうえにこなかったかもしれない。が、お高にその強さがなかったばかりに、この夕方からの運命は、三人を鼎《かなえ》の座にすえることになった。二人の男と、ひとりの女と、恋はこの時代から、ときとして三角だったのだ。
三
磯屋の奥は、土蔵づくりになっていて、うす暗かった。店と蔵をつなぐ渡り廊下まで来ると、磯五は、立ちどまった。客に応対する番頭や手代の声と、品物をかつぎ出す小僧たちの物音が、さわがしく聞こえてきていた。そこの廊下の下は、中庭になっていて、苔《こけ》の青い石などがあった。年じゅう陽があたらないので、岩清水のようなうそ寒いものが、いつもその狭庭《さにわ》に立ち迷っていた。
磯五は、何かしらつめたさが背すじを走るような気がして、身ぶるいをした。そのまま、庭下駄をはいて、蔵について裏へまわろうとした。右手にお母屋《もや》の一部が腕のように伸びていて、別棟《べつむね》のように見えていた。そこは、店で売った品を、注文に応じて仕立てて届ける、お針たちの詰めているところであった。
お針には、近所の娘や、家持ち番頭の女房などが通ってきていた。大家《たいけ》の婚礼衣裳などを引き請けて、いそぎの品がかさなったときは、夜っぴてここの窓に黄色い灯がにじんで、針と口をいっしょ
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