してまいった」
「それは、不思議なことですね。じつはきょうわたしは、この若松屋を売る手打ちをするつもりでおりましたよ。そのまぎわに、あなたという人が、金をもって助け船にあらわれるとは、まるで、作ったようなはなしでございますねえ」
「何でもいい。ぜひその具足屋へ、半口割りこませてもらいたいのだ。私は、田舎《いなか》が好きだ。掛川は、何度となく通っておるが、いいところです。ひとつ、出かけて行って、自分でやってみたいと思っておる」
若松屋惣七は、まだ半信半疑のていだ。仮に、この龍造寺主計が、いまそれだけの現金を用意して来て、具足屋につぎ込もうとしているのは、たしかな事実であると知っても、若松屋惣七は、とび立つように礼などはいわなかったに相違ない。ふかく知らぬ人間に、また、深く識っている人間に対しても、決して飛び立つように礼などはいわぬ若松屋惣七なのだ。
うれしそうな顔も、しなかった。が、それだけの金がはいれば、それを磯五にたたきつけてやって、おせい様のほうをきれいにすまして、具足屋のほうも、急場をしのぐことができるのである。
若松屋惣七は、願ってもみたことのない転換が、紙一まいのところで降ってきたので、気をおちつけて、しっかり物ごとを見ようとして、内心努力していたのかもしれない。秋の小川のような、刻こく色のかわる影のふかいものが、そうそう[#「そうそう」に傍点]と音をたてて、仮面のような惣七の顔を流れた。
龍造寺主計が、いった。
「承知なさったと、見た」
「具足屋も当分は苦しゅうございますぞ」
「苦しみましょう」
「今までの半金を出していただければ、こちらを済まして、なおあまりある。具足屋も、当座息がつけます」
「わたしは、さっそく掛川へ出向いてみたい」
「それはまた急なことで」
「おせい様と磯五は、いつ金をよこせといってきているのです」
「きょうあすにもという催促が、このところ、だいぶつづきました」
「早いほどよい。後刻、金をお渡し申そう」
若松屋惣七は、ぷすりとして、はじめて礼らしいことを述べた。
「いろいろ御厄介になります」
「何の」
ふたりは黙ったまま、ながいこと顔を合わせて、すわっていた。
若松屋惣七と、龍造寺主計と、二人の友情はこのときから燃え上がったのだ。深海をも、影ふかい谷をも、ふたりで歩き貫《つらぬ》くことになった。ひとりのためには、そこに、死が待っていたのだ。女のまことが、赤く咲いてもいたのだ。
おせい様の金のほうは、ひとまず片づいたのだろう。ひと月ほどして、東海道掛川宿の龍造寺主計から、急飛脚が、金剛寺坂の若松屋へ駈けこんだ。おおいに見込みがあると思うから、思いきり金を入れる、安心していいという文面だ。若松屋惣七は、もうすっかりそんな商人らしいことをいう龍造寺主計に、遠くから微笑を送った。
五
龍造寺主計が掛川へ発足する前の晩であった。お高は、若松屋の屋敷内の自分の部屋で、縫い物をしていた。何だか、妙にむしむしする日であった。それが、妙にむしむしする晩にかわろうとしていた。お高は縁の障子をあけ放して、そこからくる夕ぐれの光で、針をうごかしていた。金剛寺の鐘がかすかに空気をゆり動かして、きこえてきていた。金剛寺坂をさわいでゆく、子供たちの声もしていた。
お高は、かるい頭痛をおぼえていた。からだじゅうの肉が、骨からばらばらに離れて、落ちていくような気もちであった。このごろの心労が、お高の顔に、大きく書かれてあった。うすれてゆく陽の色が、ちょっと室内を赤くしたり、また、たちまち暗くしたりした。
おせい様の取り立てごとが一段落ついて、お高は、はじめてじぶんのことを考える余裕を持っていた。しかし、将来を思ってみても、こういう生活の連続のほか、何もないような気がした。すこしも、楽しいこころにはなり得なかった。
人がはいって来たので、そっちのほうへ向けたお高の顔は、蝋細工《ろうざいく》のように澄んで、生気がなかった。口のまわりに、このあいだまでなかった皺《しわ》のようなものが、かすかにできかけていた。
はいって来たのは、龍造寺主計であった。龍造寺主計は、お高を見ると、びっくりしたふうで、いった。
「どうなすった。顔いろがよくない」
「さようでございますか。じぶんでは、何ともございませんけれど」
「何ともなければよいが」龍造寺主計は、敷居ぎわに腰をおろして、縁へ足を投げ出した。「できましたか」
それは、お高の縫っているもののことであった。お高は、あした旅立つ龍造寺主計のために、肌襦袢《はだじゅばん》を何枚も縫ってやっているところであった。
「もうすこしでございます。こんなに着がえがございますから、たびたびお着かえなさらなければいけませんよ。あなた様のように、一つをいつまでも着ていらっ
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