えん」
 お高は、声をのんで、ちらと若松屋惣七を見た。磯五の妻であるとは、誰も知られたくなかったので、若松屋惣七が、そばから口を入れて、そう打ちあけはしないかと懸念したのだ。が、惣七がだまっているのでお高は安心した。惣七以外の人には、あくまでその秘密を押し通していこうと思った。
「いいえ。これからお話を申しあげるような、こちら様との取り引きを通して、存じ上げておりますだけでございます」
「さようか。それで安心いたした。何なりとうけたまわろう」
 安心はおかしいと、惣七も、お高も思った。が、惣七は、もうお高にまかせて、黙りこんでいた。お高は、いっしんに先をいそいでいた。
 できるだけ順序立てて、ひととおり今度のいきさつを話し終わった。
 話し終わるのを待って、龍造寺主計が、質問をはじめた。それは奇妙な問いから、はじまった。若松屋惣七は、まるで他人のうわさでも聞くように終始もくもくとして、腕を組んでいた。
「お高――どの、といわれましたな。お高どのは、友だちというものがほしいと、思われることはないかな」
 お高は、何という悠長《ゆうちょう》な人であろうと、まじめに応対するのが、莫迦《ばか》々々しくなった。しかし、返事をしないわけにはゆかないので、
「はい、親身に相談のできるお知りあいがあればよいと、しじゅう願っておりますでございます」そして、すぐつけたした。「旦那さまのほかに」
「うむ」龍造寺主計は、まじめとも冗談ともつかずゆっくりとうなずいて、「しからば、わたしを、その一人に考えてくだされい」
「はい。ありがとう存じます。それはもう、勝手ながら、自分だけでは、そう思わせていただいておりますでございます」
「膝とも談合と申すぞ.ましてともだちなら何をきいても、よいわけじゃな」
「はい。どうぞ何なりと――」
「では、きく」
「はい」
「かの磯五なる男が、この江戸でも、金を眼あてに女をたぶらかしていることは、おどろかぬ。先ほども話したとおり、若竹の件をはじめ、上方におったころから、そういう人物であった。おそらく昔から、そういう人物であったろう。が、その磯五のために、この若松屋が滅びんとしているとあっては、黙過できぬ。そこでだ。磯五の女房という女は、まだ生きているのかな」
「はい、生きておられますでございます」
「どこに」
「それは、申し上げられませんでございますが、でも、確かに、生きていらっしゃるのでございます。この江戸に」
「あんたは、その女を、知っているのか」
「はい。よく存じておりますでございます」
「若松屋さんも、承知か」
「磯五の内儀は、ご存じないようでございますが、その女が江戸におられますことは、ごぞんじでございます」
「どうしておる、その磯五の妻は」
「良人の磯五さんにすてられましてから、別人のように、かしこくおなりでございます」
「すると、以前は、馬鹿な女であったのかな」
「はい、何ひとつ世間さまのことを知らぬ、愚かなおなごでございました」
「さようか。わたしは、この若松屋惣七という人が好きである。いま会うたばかりだが、何年、何十年|識《し》っておっても、きらいなやつはきらい、ちょっと見たのみでも、これはと思う人は、このもしくなるものだ。友情とは、そのようなものです。ところで、何とかできぬかな。若松屋を助ける方法だが」

      三

 龍造寺主計は、うすぎたない旅の浪人だが、龍造寺主計は、単に子供が好きだというだけで、久しぶりに江戸へ出た記念《しるし》に、縁もゆかりもない金剛寺の一空和尚の学房へ、いささかまとまったものを献じただけでも、あまり金に困っていないことが、わかるのだ。
 事実、龍造寺主計は、庄内《しょうない》十四万石、酒井左衞門尉《さかいさえもんのじょう》の国家老《くにがろう》、龍造寺|兵庫介《ひょうごのすけ》の長子である。長子だが、年少のころから、泰平の世の儀礼一てん張りの城づとめが、いとわしく思われだした主計だ。武士も、この享保《きょうほう》にいたっては、本来の面目をはなれて、すでに、宮づかえの長袖に堕しているというのである。
 当否はとにかく、じぶんの生活をそう感じるようになった龍造寺主計には、全く公卿《くげ》にも似た馴致《じゅんち》と遊楽と、形式と慣習と、些末《さまつ》な事務よりほか何ものも約束しない、奉公の将来が、すっかり、底の見えたものに考えられてきた。あっけなくなった。固苦しく、わずらわしいだけだ。何らの魅惑をも、若い龍造寺主計のうえに、投げなくなってしまった。
 ときどきそういう心理におちることは、何をしていても、誰にでもあるものだが、龍造寺主計も、この無情の風を引きこんだのだといってもいい。ただ、龍造寺主計のは一時ではなくて、長くつづいた。それでも、しばらくは、藩中の変物で通っていた。
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