、磯五がおりますことを、もうご存じでいらっしゃいましょうね」
「迂濶《うかつ》なようじゃが」若松屋惣七は、無表情な顔のまま「ゆうべはじめて知った。驚いた」
 が、べつにたいして驚いたふうもなく、見えない眼を小雨の庭へ向けて、身じろぎもしないのだ。連日奔走ののちの虚脱した気もちにいるに相違ない。
 お高は、いざり寄った。
「わたくしは、おせい様のお手紙で、前から存じておりましてございます。できることなら、おせい様に思いとどまっていただこうと存じまして、いろいろと骨を折りましてございましたが――」
「そういうことであろうと、思っておった。わたしはお前が帰ったあと、おせい様の家へ出かけて行って、膝詰め談判をしてみた。すべてむだであった。おせい様は、磯五と夫婦になる気でおる。女子というものは、愚なものだな。磯五に妻のあることを、わしは話してやったぞ」
「あら、わたくしのことを――?」
「いや、いや」若松屋惣七はしお辛い笑いだ。「お前という名は出さぬ」
「はい」お高は、ほっとして、
「わたくしも、そこまではいえませんでございましたが、きのうは、磯五さんがおどかしに参りましたので、わたくしのほうから、いってやりましてございます。おせい様を突ついて若松屋さまからお金を取り立てることをよさなければ、わたくしがおせい様に身分を明かすと申したのでございますが、磯五という人は、こういうことにかけましては鬼のように強いのでございます。何といいましても、平気なのでございます。
 ほんとのことが、すっかりおせい様に知れたところで、おせい様はやはり、こちら様からお金を取って、磯屋へつぎこもうとするに相違ない。それは、わたしにも、どうすることもできないなどと、しゃあしゃあしたことを申しまして――」
「いや、そのとおりなのだ。おせい様自身、わたしにはっきり[#「はっきり」に傍点]そういいました。おせい様は、すっかり、磯五と一心同体になっておる。よくもああ掌《て》のうちに丸めこんだものだと、むしろ感心いたしたよ。
 そこで、今後は、おせい様のことは、いっさい磯五が後見するというのだ。このことも、磯五と話し合ってくれというのだ。そういって突っ放された。磯五となら、まとまるはなしも、まとまらぬにきまっておる。談合の要はない。若松屋も、もうあきらめました」
「あの、おあきらめなすったと、おっしゃいますと?」
「この若松屋の名と、両替の店を、暖簾《のれん》ごと手放すのだ、買い手のこころ当たりも、ないことはない」
「では、どうあっても――」
 お高の顔いろが変わった。眼がすぐ泪《なみだ》で光って来たとき、
「若松屋惣七殿ですか。龍造寺主計と申します」
 声が、絹雨の縁側から上がってきた。背負ってきたふろしき包みからでも出したのだろう。龍造寺主計は、旅装束を着かえているのだ。
 若松屋惣七が、声のするほうへ向かって、ちょっと衣紋をつくろっているうちに、龍造寺主計は、さっさと部屋へはいって来て、すわってしまった。
「若松屋惣七でございます」
 若松屋惣七は、かるく頭をさげた。誰にむかっても、低くあたまを下げないのが、若松屋惣七なのだ。
「せっかくの御光来に、他行をしておりまして、失礼をいたしました」
「いや、わたしこそお留守に上がって泊まりこんで――」
 龍造寺主計は、そういって、若松屋惣七とお高の顔を、見くらべた。
「何です。お取りこみな。お邪魔なら、また後刻――」
 おどろいたようにいって、たちかけた。


    水ぬるむころ


      一

 お高は、若松屋惣七が、どうしても若松屋の店を手放さなければならない。買い手の見込みも、ついている。それが、雑賀屋のおせい様へ金をそろえる唯一の途《みち》なのだ。と、聞かされていたときなので、無遠慮に割り込んで来た龍造寺主計も、眼にはいらないふうだ。
 押えても、泣き声になってきた。
「どうしても、そうなさるよりほか、方策がないものでございましょうか」
 若松屋惣七は、帰ろうとしている龍造寺主計をとどめながら、お高のほうへも答えようとした。が、龍造寺主計に、気を兼ねた。
「何だ。そんな内輪の話は、あとでしなさい。失礼ではないか」
 龍造寺主計は、これを聞くと、部屋の一隅《いちぐう》へさがって、壁によりかかって、すわった。不思議そうな顔をして、腕を組んで、ふたりを見くらべはじめた。
 他人のことは、すなわち自分のことであると、いっさい自他無差別の一種の生活信条を持っている、この龍造寺主計である。黙って、お高と、若松屋惣七の会話《はなし》を、聞き出した。
 また、そこにそうしていても、妙に邪魔にならない存在なのだ。
 若松屋惣七が、お高にいっていた。
「商売を売るより、ほかに途はつかないのだ。で、売ります。売って、からだ一つにな
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