んだ。それは佐吉であった。佐吉は、白い肩を見せてすくんでいるお高を見ると、あわてて襖をしめた。
「何ですよ。そこでいってくださいよ」
 佐吉は、外でいった。
「離室《はなれ》のお客さんが、御酒《ごしゆ》を所望なすっていられるのです。宿をするぐれえなら、寝酒はつきものだとおっしゃるので」
「そうですよ」お高は、おかしかった。「出して上げてくださいよ」
 佐吉の跫音が遠ざかってゆくと、まもなく、ひとりで酒をくみながら唄うらしい、龍造寺主計の声が、庭のやみに漂って聞こえてきた。
「きんらい酒にあてられて――」
 お高は、床のなかで、小さな声をたてて笑った。
 お高は、金策に出たきり帰らない、若松屋惣七のことを考えて、眠れなかった。じぶんの考えたことが、すべて失敗に終わったことも、思い出された。おせい様に、ほんとうの磯五を見せようとして、だめだったこと。若松屋惣七様からお金を取り立てることをよさせようとして、よさせられないこと。磯五に、ひとりでぶつかってもみたが、何にもならなかったこと。それからそれと、あたまが、冴えていった。
 早く起きた。おっくうに思いながら、身じまいをすました。滝蔵が、膳を持ってきたが、箸《はし》をとる気になれなかった。
「旦那さまは?」
「ゆうべおそくお帰りになって、奥でおやすみですよ」
「あれ、なぜわたしを起こしてくださらなかったのだろうねえ」
「此室《こちら》をのぞいていなすったが、あまりよく眠《ね》ているとおっしゃって、奥へ通られて、すぐお寝なされたのですよ」
「いやですねえ。どんなに眠っていても、起きたのにねえ」
 いってから、お高は、赧い顔をした。佐吉も、ちょっと笑った。お高は、もうたち上がって、部屋を出かかっていた。
「まだお眼ざめではないでしょうけれど、ちょっといってみましょうよ」
「まだお眼ざめはねえのです」
 お高は、奥の若松屋惣七の寝間へ行って、そっと障子をあけてみた。枕のうえに、死面のように蒼白い、若松屋惣七の寝顔があった。それは、憂苦のためにいっそう頬がこけて、けずったような、ほそ長い、するどい顔であった。
 お高は、それに吸い寄せられるように、あし音を忍ばせてはいって行って、まくらもとにすわった。夜着のはしに手をかけたが、疲れて熟睡しているらしいので、起こす気になれなかった。すこし口をあけている顔をみつめていると、お高は、悲しくなってきた。お高は、またそっと部屋を出て、縁から庭|下駄《げた》をはいて、庭へおりた。
 土が、しめっているのだ。うす陽が、梅の木を照らしているのだ。梅の木には、花があった。おそい蕾《つぼみ》もあった。蕾は、むすめの乳首のようだ。お高は、その薪《まき》のような梅の木にも、そんな萠《も》える力があるのかと何だか恥ずかしいような気がした。
 肩が重く意識されてきた。小雨だ。朝から、日照り雨が渡ってるのだ。一雨ごとのあたたかさが、来るのだ。そこにも、ここにも、春のにおいがある。お高は、鼻孔をふく雨をすいこんで、それをかいだ。
 濡れるのもかまわず、その香をむさぼって、あるきまわっていると、離室の雨戸が繰られて、龍造寺主計の寝巻きすがたが、立った。
 龍造寺主計は、やっこ凧《だこ》のような、糊《のり》のこわい佐吉の浴衣《ゆかた》を、つんつるてんに着ていた。毛だらけの脛《すね》を出して、笑っていた。
 お高を見ると、そのまま縁側に腰をかけて、そばの板の間をたたいた。
「ここへ来て、掛けなさい。きのうの蜻蛉のはなしをして進ぜる」

      三

「あの、いま磯屋五兵衛と名乗っている男のことだが驚かれましたかな」
「何を驚いたかとおっしゃるのでございますか」
「いや、わたしがねらっているのは、あの男だと知ってあんたは驚いたことであろうが、わたしもあんたのような無邪気な女が、あんな男と相識《しりあい》らしいのに、驚かされましたぞ」
「しりあいと申しましても、べつに、しりあいではございません」
「そんなことは、あるまい。あそこで、会っておったのだろうが」
「いいえ。そんな、決して、そんなことはございません」
「なければよいが、わしは、思ったとおりいう男だ。相識でない者を、なぜあんなにかばったのです」
「相識ではございませんが、ちょっと、用事がございまして――」
「それみなさい。何の用か知らぬが、あの男に近づくと、いいことはありませぬぞ」
「さようでございましょうか」
「これから、その証拠を話してあげようというのだ」
「はい」
「若松屋惣七どのは、帰られたかな」
「昨晩おそくおかえりになりましてございますが、まだおやすみなされていられますでございます」
「後刻、お眼にかかろう」
「はい」
「大阪のことでござった。声のいい、浄瑠璃《じょうるり》語りのおなごがありました。若竹《わか
前へ 次へ
全138ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング