なるほど。そこで、この蜻蛉も、ゆるしてやれというのか」
磯五は、土いろの顔をこわばらせて、無言だ。お高は龍造寺主計へ、にっこりした。
「さようでございます。どうか、このとんぼを、逃がしておやりなすってくださいまし」
「とんぼは、面白い。たとえ蜻蛉一ぴきでも、寺内において殺生は遠慮せずばなりますまい。わかった。いずれ機会はある。ここでは斬らぬから安心しなさい。いや、これが、わたしが江戸へ捜しに参った当の男なので、顔を見たとき、むかむかとしたまでだ。大丈夫ここはこのまま逃がしてやる。うふふ、いかさま御門内じゃ。とんぼは獲らぬ。が、このとんぼめ、いまは何と名乗って、どこに住んでいると申したかな」
磯五は、もうけろりとして、龍造寺主計の顔をみつめたまま答えようとしないので、お高が、代わって答えた。
「日本橋式部小路の呉服太物商、磯屋五兵衛と申すとんぼでございます」
「あくまでとんぼか」龍造寺主計は、やわらかになった眼を、お高へ置いて「その磯屋五兵衛を許すのではない。お前のあつかいによって、とんぼを一匹ゆるしてつかわすのだ。しかし、上方で、こやつは何と申しておったか、ただいまちょっと失念いたしたが、むこうで会うたこともあるし、わしは、人の顔を見違うことはない。この顔だ。盛り場の人込みで一瞥《いちべつ》しても、識別いたす。この顔です」
一空和尚が、はじめて口を出した。
「何だ。面白うもない。喧嘩《けんか》は取りやめかい」
吐き出すようにいって、本堂のむこうにある自分の庵室《あんしつ》のほうへ、どんどん帰って行った。
磯五は、終始《しゅうし》口ひとつきかなかった。平気な顔だ。さっさと実朝の碑のほうへ歩き出していた。そっちを廻わって、門を出てゆこうというのだ。その磯五のあとを見送っていた龍造寺主計に、瞬間、ふたたび激しい憎悪がひらめいたが、しずかに話しながら、お高とならんで、おなじく帰路につきかけた。ゆっくり、あるいた。
「もう若松屋惣七どのにお眼にかかって、たずね人に力ぞえをたのむ要もなくなった。運命が、若松屋殿の役目をしてくれた。日本橋の磯屋五兵衛なるものが、きやつであるとわかっておれば、あとは、いつでもよい。いつでもできる」
境内から樓門《さんもん》へかかったときは、先に出た磯五のすがたは、もう通りのどこにもなかった。
お高は、磯五と、その旅の武士《さむらい》との関係が気になって、磯五が京阪《かみがた》で何をしたのか、早く聞きたくてならなかった。磯五は、何もいわないのだ。しかし、この龍造寺主計という人の出現で、じぶんと磯五と若松屋惣七さまとのうずまきが、いっそうこんがらかってきそうなことは、考えられるのだ。
龍造寺主計は、自分のさがしている男は、公儀のおもてはそうでなくても、神仏の眼からは人殺しであるといった。きっとまた、ひたむきの女のこころとからだをもてあそんで、何か悪いことをしたのであろう。お高は、それにきまっていると思った。
若松屋惣七ほど、磯五の性格をつかんでいるわけではないが、あの人がよくないことをすれば、それは必ず異性に対してであると、じぶんの経験や、その後の磯五に関する見聞によって、お高は、信じ切っているのである。はじめから男を相手どって、それを敵にまわすような、さわやかな人物ではないのだ。
それが、いま磯五は、龍造寺主計というはっきりした敵を、この江戸に持つことになったのだ。お高は、とんぼとして助けられたきょうの磯五が、何だかみじめに思われてきた。今のように、男対男として、ほかの男のまえに立つと、ずうずうしいうちにも、ぽっちゃりとしてやさしい磯五が、妙に可哀そうに思われてきた。このさき、どうなるであろうかと思った。
龍造寺主計は、何か考えている。黙って、歩いている。お高は、そっと龍造寺主計の横顔を見た。そこにお高は、磯屋五兵衛とは極端に反対な人間を見た。やわらかい心臓を包んでいる強い線が、龍造寺主計だ。おなじ男で、こんなにも違うものであろうかと、お高は思った。
二
龍造寺主計は、それきり何もいわなかった。つれだって、金剛寺坂の屋敷へ帰ってみると、若松屋惣七はまだかえっていなかった。
龍造寺主計は、もう若松屋惣七に会う必要がなくなったから、待たなくともいいといったが、どこへも行くところがないので、お高の厚意で、若松屋方へ泊まることになった。お高は、佐吉に命じて、龍造寺主計のために、離室《はなれ》に床をとらせた。
佐吉に、龍造寺主計のめんどうをみさしておいて、じぶんは、居間へ帰った。しばらく起きていて、若松屋惣七のかえりを待ってみたが、帰りそうもないので、寝る支度をはじめた。
するりと着物を脱いだところへ、ふすまがあいたので、お高は、びっくりした。着物を前へかけて、その場へしゃが
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