いあの人のどこがそんなに女を惹《ひ》きつけるのであろう。お高は、磯五の顔を思い出そうとして、枕《まくら》の上で、眼をつぶった。そして、いった。
「あの人のことでございましたら、どうぞもうおっしゃらないでくださいまし」
 暴風雨は、つぎの日一日、江戸を去らなかった。若松屋惣七は、どこへ行くとも告げずに、あらしを冒《おか》して、駕籠で出て行った。出がけに、お高にいった。
「留守に来書があったら代わりに見ておいてくれ」
 金策に出かけるであるらしいことは、お高にも察しられた。お高は、居てもたってもいられない気もちでいながら、どうすることもできなかった。
 午《ひる》さがりになっても、何をするでもなく、座敷の縁側に近くすわって、寒い白い雨を、ぼんやりながめてくらした。そこへ使い屋が手紙を持って来た。お高は、機械的に文箱をひらいた。きょうに限らず、若松屋惣七が他行か昼寝でもしているあいだ、お高が、手紙を代読しておくのは、珍しいことではなかった。それは、女番頭といったような、お高の役目の一部でもあった。
 その手紙は、おせい様からきたものだった。古風な達筆で、こういう意味のことが書いてあった。
 当方の都合があって、非常にいそいでいるから、できるだけ早く金を届けてもらいたい。それも、じぶんのほうへ届けてもらうのではなくて、日本橋の式部小路に、磯屋五兵衛という呉服太物商がある。ご存じかもしらないが、知らなくても、きげはすぐわかる。そこへ届けてもらいたい。じぶんの手にきても、どうせその磯屋へ持っていくのだから、どうかはじめから磯屋の店へ届けてもらいたい。一刻もあらそう場合である。くれぐれもお願いする。
 というのが文面で、下谷同朋町拝領町屋、おせいよりとある。
 お高は、手紙を、繰り返して読んだ。思ったとおりである。おせい様は、若松屋惣七をこんなに苦しめて取り立てた金を、右から左に、磯屋五兵衛へつぎこもうとしているのだ。磯五は、これを眼あてに、お高という妻のある身でありながら、中年すぎたおせい様をくどいて、家《うち》に迎えると称して、夢中にさせているのだ。考えただけでけがらわしいと、お高は思った。
 お高は、手紙を、帯のあいだへはさんで、たち上がった。どうしても、若松屋惣七には、見せられないのだった。何とかして若松屋惣七に知らさずに、自分の手で防がなければならない。お高は、そう考えた。
 おせい様のところへ出かけて行って、磯五には自分という妻のあること、磯五の人物、その他すべてを打ちあけるに限ると、お高は、思った。惣七が帰らないうちにと、手早く身じたくをして、玄関の用人部屋のまえへ行って、いった。
「誰かお駕籠を呼んでもらいましょうよ」


    拝領町屋


      一

 お高は、下谷同朋町の拝領町屋にある、おせい様の家へ出かけて行った。それは、店屋にかこまれて、裕福らしい素人家《しもたや》が数軒かたまっている、そのなかのひとつだ。根岸《ねぎし》か向島《むこうじま》あたりにでもありそうな、寮ふうの構えで、うす陽《び》が塀《へい》ごしの松の影を、往来のぬかるみに落としていた。
 お高は、鳥居丹波守《とりいたんばのかみ》の上屋敷と上野《こうずけ》御家来衆のお長屋のあいだを抜けて、拝領町屋の横町へ出て、雑賀屋のおせい様ときくと、すぐにわかった。細い千本|格子《こうし》をあけると、十六、七の小婢《こおんな》が出てきた。お高は、じぶんの名をいっても、おせい様が知っているわけはないと思ったから、小石川金剛寺坂の若松屋惣七のもとから参りましたとだけいった。
 お高の通されたのは、町家によくある、せせこましい中庭に面した、小じんまりした座敷だ。庭のむこうが土蔵の壁になっているので、部屋のなかは、夕方のようにうす暗いのだ。が、贅沢なつくりであることは、つかってある木を一眼見てわかるのだ。床柱など見事なものだと、お高は思った。
 お高は、待たされているまに、座敷のなかを見まわして、さびしい気がしてきた。あのおせい様のこころといっしょに、この家も、調度もみんな、いまに磯五のものになるのだと思うと、そんな馬鹿々々しいことを、いよいよ黙って見ていられないと思った。
 磯五という人間、自分との関係、磯五とおせい様、とこうならべて考えると、お高には、じぶんの立場と、なすべきこととがよくわかるのだ。だが、お高は、いまおせい様のまえにすべてをぶちまけようとしている自分の動機に、嫉妬がひそんでいることには、自分では、気がつかなかった。
 お高は、若松屋惣七のためとはいえ、若松屋惣七に内証で、こうして勝手に出かけてきて悪いことをしたとは思わなかった。若松屋惣七が帰って来て、留守に手紙がきたと聞いて、その手紙がどこにもなく、お高もどこかへ出て行ったら、何と思うだろうかとも
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