ことになっておった。
そのうえ、本人のおせい様は、伊勢参宮《いせさんぐう》とかに出かけたきり、ながらく上方にとどまっておって、このころまで、わしのほうの用向きもなかったのだ。が、待てよ。お前いま、おせい様という名を聞いて、おどろいたようであったな」
「いいえ」
「知っているのではないか」
「いいえ」
「そうか、おせい様はな、駒形《こまがた》の猿屋町《さるやちょう》、陸尺《ろくしゃく》屋敷のとなりにあった、雑賀屋《さいがや》と申した小間物問屋の後家なのだ。いまは、 下谷同朋町《したやどうぼうちょう》の拝領|町屋《まちや》に、女だけの住まいをかまえておる。見ようによっては老《ふ》けても若くも見えるそうだが、まだ美しさの残っておる女だ。世間知らずの、子供のような人でな、あれに悪い虫がついたならば、いかな雑賀屋の大財産も、一たまりもないであろう。案外、そんなことかもしれぬぞ」
お高は、若松屋惣七のいうことを、聞いてはいなかった。考えがあたまを駈けめぐって、何をいわれても聞こえなかった。
お高には、すべてがわかった。なぜ名前が出るまで、気がつかなかったろう。磯五も、おせい様のことを話すとき、誰か凄腕《すごうで》の、そして正直|一轍《いってつ》の金がかりがついているといって、自分はすぐ、それは若松屋さまにきまっていると思ったほどではないか。
そうだ。雑賀屋のおせい様に、とうとうその悪い虫がついたのだ。そのわるい虫は、たとえ名だけでも、じぶんの良人となっている磯五であると思うと、お高は、恐怖のようなもののために、寒さを感じた。おせい様は、あの磯五に与えるために、旦那さまからそのお金を取り立てようとしているのだ。そのために、この旦那さまは、身も商道もほろぼされようとしている。おせい様が、人もあろうに磯五に、金をみつごうとしているばっかりにである。
お高は、けっして傍観するわけにはいかないと決心した。血走った眼が、若松屋惣七を見た。若松屋惣七は、行燈のほうへ首を傾けていた。風雨の音に、聞き入っているように見えた。
「あらしに、なりましたな」
「はい。ひどい吹き降りになりましてございます」
「もっともっと、ひどい吹き降りになろうもしれぬ」
「はい」
お高の顔は、不自然に、白くかわいていた。眼だけは、そこから夏の星ぞらでものぞいているように、これも不自然に、かがやいて見えていた。小さな口が、固い直線をつくっていた。どこにも、悲しい影も、苦しい影もなかった。女というより、美少年のようなお高に見えた。戦いぬこうというこころが、一時に彼女を、強く変えて見せていたのだ。
「なるようにしかならぬ。何とかなろう。どうもならぬときは」若松屋惣七は、眼をみはるようにして、お高のほうを向いた。
「なあ、そのときは、そのときではないか。それより、お前のほうは、どうした。それを聞こう」
「どうと申しまして、べつに、申しあげることはございません」
「うそをつけ。帰って来てくれと、磯屋にいわれて、いろいろ話があったことであろうが」
「はい。そういうはなしはございました」
「それを、どうきめたのだときいておるのだ。べつに強《た》って聞こうとはいわんが――」
若松屋惣七は、ふところに入れていた手を胸元へまわして、がりがりかいた。顔をしかめて貧乏ゆるぎをはじめた。
六
「どうと申して、またいっしょになるなんぞ、死んでもいやでございます」
「なぜだ」
「なぜでも、いやでございます」
「それで、帰って来たのか」
「はい」
「馬鹿め。磯屋におればよいに。おれのところは、あすにも食うに困ることになるぞ」
「はい。高は、ごいっしょに乞食《こじき》をさせていただこうと存じまして、帰ってまいりましてございます」
「ふん。そうか、それもよかろう」
若松屋惣七は笑った。あくびをして立ち上がった。お高も、立ち上がった。二人は、いつものように前後につづいて、寝間のほうへあるいて行った。
寝間から、若松屋惣七の声がしていた。
「磯五は、金があるのかな」
お高の声が、答えた。
「さあ、どうでございますか」
「隠すな。借りに行くといいはせぬぞ」
「そんな、意地のわるいことばっかしおっしゃって──」
「磯五は、どうして金をつくったか。話したか」
「お金などないようでございますよ」
「金がなくて、磯屋という店が買えるか。金がなくて、これからどうしてやっていくのだ」
お高は、黙った。おせい様に対する磯五の態度や気もちが、いっそうはっきりわかってきた。あの人が磯屋五兵衛となるまでに、何人のおせい様があったことだろう。そして、これからも、磯五の店をやっていくために、何人の、いや、何十人のおせい様があらわれることだろう。そして自分は、あの人の妻ということになっているのだ。
いった
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