、考えなかった。お高の考えていることは、たった一つだ。
 何とかして、おせい様のこころを磯五から引き離して、おせい様が磯五にやるために、若松屋惣七からいそいで金を取り立てることを思いとまらせなければならない。若松屋の旦那様を、この急場からお助け申さなければならない。そのために、第一に、おせい様に、自分が磯五の妻であることをうち明けなければならない。おせい様のこころを、みじんに砕かなければならない――お高が、いろいろに考えて、決心をしているところへ、おせい様がはいって来た。
 おせい様は、お高を見て、おどろいたふうだった。
「おや、あなたさまは、磯屋のうら座敷でお眼にかかったお方でございますねえ。あなた様のことは、よく存じ上げておりますでございますよ。五兵衛さんが、あとで話しておりましたよ。あの人は、わたしには何でも話すのでございますよ、あの人のお従妹《いとこ》さんでいらっしゃいますって、ねえ。ほんとに、よくいらっしゃいましたよ」
 お高は、おせい様に、無心に先手を打たれたような気がして、挨拶に困った。おじぎをして、それから、おせい様のようすを見た。
 おせい様は、若いころは、珍しく美しい人であったに相違ないと、お高は思った。いまでも、おせい様の表情は、夏の夕ぐれのようににおやかなのだ。びいどろ[#「びいどろ」に傍点]のように、無邪気に、感情がすいて見えるのだ。
 お高は、玉のようなものが上がって来て、咽喉《のど》が詰まるような気がした。こんな人を、こんなにだますなどと、磯五という人は、何という罪つくりであろうと思った。おせい様も、おせい様だ、磯五の肚黒《はらぐろ》にはすこしも気がつかずに、すっかりまるめられて、近いうちに、磯屋へ迎えられて行く気でいるのだ。お高は、かなしくなった。決心はしたものの、こうして面と向かうと何といって切り出したらいいか、わからなかった。
 従妹だと磯五がいったと、おせい様に聞かされても、お高は、すぐそれを打ち消すことができなかった。黙っていた。
 おせい様は、いつものとおり、にこにこしていた。おせい様のまわりには、しばし春の風が吹いている感じがするのだ。いまその春の風がお高のほうへも吹いてきて、お高は、この人に、そんな残酷なことなど、とてもいえそうもないという気がしていた。
 おせい様は、お高は遊びに来たのだとでも思っているらしく、よもやまの世間ばなしをはじめた。屈託のない、ほがらかな声だ。お高は、床の間にかかっている、小さな、古い軸を見ていた。それは、わらびの絵で、上に、読みにくい字で、賛が書いてあった。野火の煙や横に、とあとはよく読めなかった。
 お高は、それを読もうとして、床の間のほうをのぞくようにした。おせい様も、何か話しかけていたことばを切って、そっちをふり返った。それがお高に、さがしていた機会《きっかけ》をあたえた。お高は、いい出していた。
「あの、さっきの小さな女中さんは、わたくしが何のことで参りましたか、あなた様へ取り次ぎましたでございましょうか」

      二

「はい。それがね、ほんとに馬鹿な婢《こ》で、どなたかほかの人と間違えて、若松屋惣七さんから若いおなご衆がお使いにみえたと申しましたよ。若松屋惣七さんと申すのは、わたくしがお金の扱いをまかせてきたお人で、このごろ、ちょっと頼んでやってあることがあるのでございますよ。
 じつは、そのことが片づかないで、困っておりますので、きっとその話を聞いていて、それであの婢は、そんなとり違えたお取り次ぎをしたのでございましょうよ」
「いいえ。わたくしはほんとに、若松屋惣七から参ったのでございます。ちょっと内々《ないない》で、お耳に入れておきたいことがございまして――わたくしは、若松屋惣七の女番頭でございます」
「あら、あなた様が、あの磯屋さんのお従妹さんが、若松屋の女番頭――それは、まあ、わたしも、はじめて伺いましたよ」
「まだ今のうちに申し上げれば、おそくはございますまいと存じまして」
「何のことでございますか。若松屋さんに、何かお金のまちがいでもあるのでございますか。あのお人は、正直なお人とばかり思っておりましたに」
「はい。若松屋さまは、正直なお人でございます。若松屋さまに限って、お金のまちがいなどは、決してございませぬ。お話と申すのは、ほかのことでございます。どうぞ、びっくりなさりませんように」
「まあ、気味のわるい。早うお話しなされてくださりませ」
「若松屋さまは、わたくしが、きょうこちら様へお伺いしたことは、ご存じないのでございます。どうしてもお話し申し上げたいことがございますので、わたくしひとりの考えで、お邪魔に上がったのでございます」
「それはいったい、何のことでございますか」
「いまおっしゃった、若松屋さまから取り立てよ
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