焦立《いらだ》ってきた。
「兄者は、吉良に怒らせられて、きっと殿中で刀を抜く。刃傷《にんじょう》――。」
「おれが吉良を斬る――。」馬のように笑って「馬鹿な!」
「いや、必ずそんなことになる。そうすると岸和田五万三千――。」
「斬りなどせんよ、大丈夫――ただ、逆を往くのだ。ははは、は、万事、吉良のいう逆を、な。」
 歯を食いしばって、辰馬は、考えに落ちた。
 美濃守は、他人《ひと》ごとのようにけろりとして、その、沈痛な弟の顔を、珍しそうに見ていた。

      三

「いや、手前ども主人も、昨年、吉良殿には泣かされました。」
 多湖《たご》外記《げき》は、亀井能登守の江戸家老だった。べっこう[#「べっこう」に傍点]ぶちの大眼鏡を額へ押し上げて、微笑の漂っている視線を、岡部辰馬のうえに据えた。
「今年は、お兄上岡部様が、御本役で、お添役は?」
「立花殿です。」
 と、辰馬は、夜おそくこうして亀井の邸を訪ねて来た要むきに、早く触れたかった。
 外記も、この客の要件をいろいろ推測しながら、
「立花出雲守さま――添役は、まあ、なんですが、本役となると、お察しします。」
 辰馬は、態《わざ》わ
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