役を勤める諸侯から吉良へ賄賂《わいろ》を贈ることが、毎年の例になっていて、吉良のほうでも、いつのまにか、今度は誰それがつとめるのだから、およそいくらぐらいは持って来るであろう、と、心待ちするようになっていた。吉良は、その、天瓜冬の砂糖漬に隠された現金の進物を、賄賂とは解釈していなかった。自分に教えを受けるについての、当然の謝礼――挨拶、と周囲から思わせられてきていた。
添役立花出雲守は、奥州下手渡三万石で、それが百両もはずんだのだから、本役で五万三千石の岡部家からは、まず、五百両は動かないところ、と踏んでいた矢さきに、この扇箱ひとつだった。
「侮辱《ぶじょく》だ。立派な挑戦じゃ――。」
また独言《ひとりごと》が出た。
「うむ。おれに訊かんでも、饗応方が勤まるという意じゃろう。面白い。勤めてみるがよい。物のたか[#「たか」に傍点]ではないぞ。この無礼な仕打ち――はじめてじゃ。」
「殿様。」平茂が、前の扇箱に眼をつけて、手を伸ばした。「酔興《すいきょう》なお品がこれに。松飾《まつ》がとれますと、扇箱のお払いものはございませんか、って、裏ぐちから顔を出しますな。あれは、買いあつめて、箱屋へ返して、来新春《らいはる》また――。」
吉良は、黙って起った。扇箱を、うしろの違い棚へ置いて、褥《しとね》へ返った。
「よいのがあるとか申したのう。」
「現れました。」
いつもの吉良を見て、平茂は、羽織の裾をひろげながら、膝を進め出した。
「あちこち口を掛けておきましたところが、これも縁でございますな。いや、逸物《いちもつ》、尤物《ゆうぶつ》――なんぼ人形食いの殿様でも、これがお気に召しませんようでは、今後こういう御相談は、平茂、まっぴら御免、なんて、前置きが大変。」
「ううむ、どうしてくれよう。」
急に吉良は、両手を握りしめてうつ向いたが、すぐ蒼白く笑って、
「美濃か。美濃か。はっはっは――そうさのう、伴《つ》れてまいれ、その女を。」
二
弊風《へいふう》、という字を、美濃守は、宙に書いては消していた。
上野介が、三州吉良大浜で四千二百石を食《は》み、従四位少将の位にあるのは、殿中諸礼式の第一人者だからだった。そして、役目のなかには、もっぱらこの天奏饗応などに際して、慣れない役に当たった大名の面倒を見、万端手落ちのないように勤めさせることが、含まれていていいはずだった。
それなのに、近年――贈るほうもおくるほうだが、うけとるほうも受け取るほうだ、と美濃守は、弛緩《しかん》しかけた幕政のあらわれの一つのように思えて、憂憤《ゆうふん》を禁じえなかった。
個人的にも美濃守はあの吉良という人間に普段から、何かしら許しておけないものを感じてきていた。
手違い、不便、吉良の手によって続けさまに、それらの障害が投げられるであろうことは承知の上で――と、美濃守は、ふたたび、弊風、それに、打破の二字を加えて、自分を鞭撻《べんたつ》するように、こころに大書した。
「兄者、お在室《いで》かな。」
大声がして、縁の障子が開いた。辰馬が、荒あらしく踏みこんで来た。
立ったままで、
「兄者、聞こう! 公卿相手の茶坊主ごときやつに抗《さから》って、先祖代々の家をつぶして何が面白い――。」
振りあおいだ美濃守の片面に、燭台の火が、辰馬の持って来た廊下からの風にあおられて、黄色く息づいた。
「賢才ぶったことをいうな。」
といった兄には、やはり、ちょっと兄らしい重みがあった。その偉躯《いく》とともに、武芸家として、また、世事に通じた大名らしくない大名として、平常辰馬の尊敬している兄でもあった。
それだけに、今度の、事を好むような態度が、いっそう不思議でならなかった。
「やるものをやらんと、意地悪をしますぞ、兄者。」
どかりと、坐った。
「わざとうそ[#「うそ」に傍点]を教えて役儀に不都合をきたさしめ、それとなく賄賂を催促するということです――。」
「賄賂の督促など、おれには馬の耳に念仏だよ。何もやらんのではない。久野に命じて、四十五文の扇箱をやった。」
「師匠番ですぞ。いくらか風にならって――。」
美濃守は、大きな声を出した。
「吉良には、頼まん。」
「兄者は、殿上の扱いをすべて御存じか。」
「自慢じゃないが、何も知らんよ。しかし、先例というものがある。」
「先例はあっても、時に応じて変ることもあります。」
「そんなら、そのときのことだ。」
「万一、粗忽《そこつ》があったらどうなさる。」
「おれ一人が、責任を持ったらいいだろう。」
「お一人ではすみません。お家を、お郷藩《くに》を――。」
「なんじゃ、賢《さか》しらな! 肩をそびやかして詰め寄って――。」
美濃守が、いつものようにぬうっ[#「ぬうっ」に傍点]としているので、辰馬は、
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