焦立《いらだ》ってきた。
「兄者は、吉良に怒らせられて、きっと殿中で刀を抜く。刃傷《にんじょう》――。」
「おれが吉良を斬る――。」馬のように笑って「馬鹿な!」
「いや、必ずそんなことになる。そうすると岸和田五万三千――。」
「斬りなどせんよ、大丈夫――ただ、逆を往くのだ。ははは、は、万事、吉良のいう逆を、な。」
歯を食いしばって、辰馬は、考えに落ちた。
美濃守は、他人《ひと》ごとのようにけろりとして、その、沈痛な弟の顔を、珍しそうに見ていた。
三
「いや、手前ども主人も、昨年、吉良殿には泣かされました。」
多湖《たご》外記《げき》は、亀井能登守の江戸家老だった。べっこう[#「べっこう」に傍点]ぶちの大眼鏡を額へ押し上げて、微笑の漂っている視線を、岡部辰馬のうえに据えた。
「今年は、お兄上岡部様が、御本役で、お添役は?」
「立花殿です。」
と、辰馬は、夜おそくこうして亀井の邸を訪ねて来た要むきに、早く触れたかった。
外記も、この客の要件をいろいろ推測しながら、
「立花出雲守さま――添役は、まあ、なんですが、本役となると、お察しします。」
辰馬は、態《わざ》わざ頼みにきたことを、どう切り出していいかわからなくなった。で、黙っていると、外記がひとりでつづけて、
「気骨が折れて、出金が多い。それで、無事勤めたところで、戦場一番槍ほどの功にはならんのですから、一生に一度の、まず名誉かもしらんが、正直、ありがたくありませんな。ところで、申すまでもなく、そこらに抜かりはありますまいが、吉良さまのほうへ、いくらかお遣《つか》わしになった――。」
辰馬は、待っていた話題が来たので、四角くなった。
「兄に、何か考えがあるとみえて、吉良への進物は断じてならぬと申しますので、困っております。」
外記は、ぎょっとしたように、
「岡部様らしい。が、それはいかん。それは、危ない。」
「それにつきまして、じつは――。」
「最初の贈り額《だか》がたりませんでな。手前の主人も、さんざ吉良様にいじめ抜かれ、すんでのことで刃傷《にんじょう》におよぶところ、手前が、遅ればせに、例の天瓜冬の届け直しをやって、はははは――。」
「おそれいりますが、」辰馬は、やっと用を口に出した。
「昨年の勅使お日取りが、お手元にありましたら、ちょっと借覧願いたいのですが――。」
「お易い御用。ありますはずです。」
外記は、そんなことだろうと思っていたといったように、せかせかと鈴を振って、用人を呼んだ。
四
野武士めいた、肩幅の広い美濃守のうしろ姿を、吉良が、憎悪をこめて凝視《みつ》めている時、美濃守が、ふり返った。
眼が合うと、両方が立ち停まって、しげしげと眺めあった。それは、たがいに、珍奇きわまる生物を発見したとでもいうような、やゆ[#「やゆ」に傍点]と敵意の交錯した、視線の戦争だった。
吉良を見上げ見下ろしながら、美濃守が、厚い胸を張って、近づいて来た。
城の廊下で、いそがしく往き交《か》う役人や坊主の影が、壁に明るかった。
「吉良殿、自分は、勅使取持役は不調法です、よろしく。」
吉良は、傍《わき》を向いて、小声に、いわでものことをいった。
「不調法なものを、なぜお受けなされた。」
美濃守が、聞き咎めた。
「これは、異なことを! 上野介殿はそのほうは専門家であるから、万事お手前の指図を仰ぐように、という、土屋相模守殿のお言葉添えがあったればこそ、お引受けしたものを――それを、とやかくいわるるなら、拙者は、これより相模守殿に申達して――。」
吉良は、取り合わずに、さっさと歩き出していた。美濃守の声が、追っかけた。
「お出迎えは、どこまで出るのですか。」
吉良を振り向かせるまでに、美濃守は、同じ問を根気よく、三、四度くり返した。
「お! 美濃守じゃったな。先日はまた、結構な扇箱を――お出迎えぐらいのことを御存じないとは、御冗談でしょう。」
「知っておれば訊きませぬ。知らぬから訊く。品川までかな?」
「品川にはおよびません。芝|御霊屋《みたまや》の前あたりまで出られたら、よろしかろう。」
「しからば、」美濃守は、顔いっぱいに笑って、「品川までお出迎えいたしましょう。どうも自分は、吉良殿の逆を往くことが好きでな。」
ほんとうは、もちろん品川まで迎えに出なければならないのだった。
「御随意に。」
さっと赤くなった吉良は、すぐ蒼く、こまかくふるえて、美濃守に背中を見せた。
が、足をゆるめて、肩越しに、
「勅使院使のお日取り――御存じのうてはかないませぬぞ。」
美濃守は、首を傾《かし》げた。
「知りませんな。が、これだけのことは存じておる――勅使院使公家参向当日、お使い御老中、高家さしそえこれをつかわさる。御対顔につき、登
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