元禄十三年
林不忘
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)勅使饗応役《ちょくしきょうおうやく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一大事|出来《しゅったい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
−−
問題を入れた扇箱
一
「いや、勤まらぬことはありますまい。」
土屋相模守は、じろりと二人を見た。
「勤まらぬといってしまえば、だれにもつとまらぬ。一生に一度のお役であるから、万事承知しておる者は、誰もないのです。みな同じく不慣れである。で、不慣れのゆえをもってこの勅使饗応役《ちょくしきょうおうやく》を御辞退なされるということは、なんら口実《こうじつ》にならんのです。御再考ありたい。」
しかし、一、二度押し返したうえで引き受ける習慣になっていた。
浅野事件の前年だった。
元禄十三年三月三日に、岡部美濃守と立花出雲守が、城中の一室で土屋相模守の前に呼び出されていた。土屋相模守は老中だった。
年に一回京都の宮廷から、公卿《くげ》が江戸に下って、将軍家に政治上の勅旨《ちょくし》を伝える例になっていた。その天奏衆《てんそうしゅう》の江戸滞在中、色いろ取持ちするのが、この饗応役だった。毎年きまったことなのに、関東では一年ごとに、諸大名が代って勤めることになっていた。
初めてつとめるのだし、大役だしするから、天奏饗応役に当てられた諸侯は、迷惑だった。心配だった。形式的にも、一応は辞退したかった。
饗応役には、正副二人立つのだった。この元禄十三年度の饗応役に、本役には岡部美濃守、添役《そえやく》には立花出雲守が振りあてられた、と、土屋相模守にいい渡されたとき、出雲守は顔いろを変えた。
「おそれいりますが、私は、堂上《どうじょう》方の扱いをよく存じません。それに、家来には田舎侍多く、この大切なお役をお受けして万一不都合がありましては、上へ対して申訳ありませんから、勝手ながら余人へ――。」
これは、毎年のように、誰もが一度饗応役を辞退する時の定り文句になっていた。相模守は、聞き飽きていた。
そして、これも、この場合、毎年繰りかえしてきた言葉だが、
「御再考ありたい。上野《こうずけ》がすべて心得おるから、あれに尋ねたなら勤まらぬことはあるまいと思われるが――。」
と、眼を苦笑させて、ちらと岡部美濃守を見た。
そういわれると、それでもつとまらないとはいえないのだった。
「さようならば――。」
無理往生だった。出雲守は、仕方なしに、引き受けないわけにはいかなかった。
「身に余る栄誉――。」
と小さな声だった。が、相模守の眼を受けた岡部美濃守は、口を歪めて、微笑していた。
「お受けいたします。なに吉良殿などに訊《き》くことはありません。私は、私一個の平常の心掛けだけでやりとおす考えです。」
どさり、と、重く、畳に両手をついて、横を向くようなおじぎをした。
二
上野介《こうずけのすけ》は、無意識に、冷えた茶をふくんだのに気がついた。吐き出したかったが、吐き出すかわりに、ごくりと飲み下して眉根を寄せた。
「何だ、これは――何だと訊いておるに、なぜ返事をせんか。」
すこし離れて、公用人の左右田《そうだ》孫三郎が、頸《くび》すじを撫でながら、主人を見上げた。
「御覧のとおり、扇箱《おうぎばこ》でございます。」
「扇箱は、見てわかっておる。その扇箱がどうしたというのだ。」
鍛冶橋《かじばし》内の吉良《きら》の邸で、不機嫌な顔を据えた上野介の前に、扇箱が一つ、ちょこなんと置いてあった。
年玉などに使う、八丈を貼った一本入れの、粗末なものだった。空箱で、竹串がはいっていて振るとがらがら音がした。高価《たか》く踏んで、四十五文か、精ぜい五十文の物だった。
「立花出雲は、添役じゃぞ。」吉良は、漆《うるし》のように黒く光る眼を、いそがしく瞬《またた》いた。「孫三、出雲から、何がまいったとやらいうたのう――。」
「は。天瓜冬の砂糖漬、鯛一折、その他国産色いろ――。」
「砂糖漬には――これだけとか申したな?」
ちょっと逡巡《ためら》ったのち、上野は、人さし指を一本立てて見せた。百両《ひとつ》の意味だった。
珍奇な、天瓜冬の砂糖菓子に小判を潜めて、賄賂《まいない》を贈る風習だった。天瓜冬の砂糖漬といえば、やるほうにも貰うほうにも、菓子のあいだに相当の現金《もの》が挾《はさ》めてある、無言の了解があった。
孫三郎も閃めくように指一本出してうなずいた。
扇箱を顎でさして、吉良が、呻《うめ》いていた。
「気の毒だな
次へ
全12ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング