。添役が、そんなにせんでもええに。本役の岡部殿からは、この扇箱ひとつ――ふふふ、二重底であろう。見い。」
孫三郎は、箱を手に取って、弄《いじく》りまわした。
「ただの扇箱で――。」
「使いの者は?」
「何とか申す用人でございました。逃ぐるように引き取りましたが――。」
「口上をきいておるのだ、口上を。」
「口上は、その、このたび、岡部美濃守様が天奏饗応役を仰せつけられましたについて、殿中よろしくお引廻しのほどを、という――。」
骨張った吉良の額に、太い青筋がはってきて、
「よい。嘲弄《ちょうろう》する気であろう、この上野を。」
と、口びるを白くした時、襖をあけて、平手で頭を叩いた者があった。
「へっ、殿様、御機嫌伺い。」
お錠口御免の出入りの小間物屋だった。平野屋茂吉が、ずかずかはいってきていた。
「一大事|出来《しゅったい》。平茂《ひらも》、御注進に。じつぁね、例の女の子、行火《あんか》がわりの、へへへ、賞《ほ》めてやっていただきやしょう。見ただけで、ぶるるとくるようなやつが、殿様、みつかりやしたんで。」
平茂に、新しい妾の周旋《せわ》を頼んであったことを思い出しながら、吉良は、不愉快な感情のやり場がなくて、孫三郎をきめつけていた。
「扇箱一つで、殿中引廻し、か。虫のいい! これ、進物の額《たか》をいうのではない。が、ものには順があるぞ、順が。」
蒼ざめた吉良の顔に、無礼を愛嬌にしている、幇間のような平茂も飽気《あっけ》に取られた。
三
「相手が悪いから、心配するのだ。」
辰馬《たつま》は、江戸ふうの青年だけに、めっきり浪人めいて来ていた。
大きな胡坐《あぐら》をかいて、御用部屋の壁によりかかった。
吉良へ扇箱を届けて帰邸《かえ》ってきた久野彦七も納戸《なんど》役人の北|鏡蔵《きょうぞう》も金奉行の十寸見《ますみ》兵九郎も黙っていた。
岡部辰馬は、岡部美濃守の弟だった。分家してぶらぶらしていたが、兄が勅使取持役を受けてからは、ほとんどこの屋敷に詰めきりだった。
「まずかったかな。」と、口をへの字にして、もう一度老人たちを見まわした。「誰が扇箱などを持って行けといったのだ。まるで、からかうようなものじゃないか。いい年寄りが多勢揃っていて――。」
久野彦七は、汗をかいていた。
「いやはや、子供の使いでしたよ。あの扇箱を置いて、すたこら逃げて来ましたわい。まったく、あとが怖い。憎い鷹《たか》には餌をやれで、例の天瓜冬の三百か五百――先方《さき》もあてにしているんですなあ。」
「それだけ知っていて、なぜやらぬ。」
「殿様の御気性《ごきしょう》を御存じでしょう――。」
納戸役の北が、腕組みをして溜息を吐いた。
十寸見が、乗り出した。
「立花様のほうへ、それとなく伺ってみました。添役だから、内輪《うちわ》にして百両――だいたいそんなところだったらしい。」
「そうだろう。添役で百両《いっそく》なら、本役の当家は、やっぱり、五百という見当だ。そこを、扇箱|一個《ひとつ》なんて、間抜けめ! 吉良のやつ、今ごろかんかんだぞ。」
三人は無言だった。
「訊いてくる。」
辰馬が、膝に手を突っ張って、起き上りかけた。
「ちょっと、お待ちを――。」
「停めるな。泉州岸和田五万三千石と、一時の下《くだ》らぬ強情《ごうじょう》と、どっちが大切か、兄貴にきいてくるのだ。」
歩き出すと、久野が、追いすがった。
「しかし、殿様はもう、吉良殿と一喧嘩なさるおつもりで、気が立っておられますから――。」
「その前に、おれが兄貴と喧嘩する。金で円《まる》くすむのに、家のことも思わずに、何だ。おれにも考えがある。離せ!」
振りきって、跫音が、美濃守の居間のほうへ、廊下を鳴らして曲った。
夜の客
一
「平茂か。進むがよい。」
吉良の声を機《しお》に助かったように孫三郎が座を辷《すべ》ると、入れ違いに、平野屋茂吉が吉良の前にすわった。
「驚きました。達磨《だるま》は面壁《めんぺき》、殿様|肝癖《かんぺき》――。」
つるりと顔を撫でて、平伏しながら、
「何ごとかは存じませんが、平に御容赦。ほどよい女子を探しあてましたる手前の手柄に免じて、ここは一つ、お笑い下さいまし。お笑い下さいまし。」
吉良は、穿《は》き古した草鞋《わらじ》のような感じの、細長い顔をまっすぐ立てたまま、平茂のことばは、聞こえていて聞こえていなかった。
「美濃めが――。」
と、口の隅から、つぶやいた。
――高家筆頭《こうけひっとう》として、公卿堂上の取次ぎ、神仏の代参、天奏衆上下の古礼、その他|有職故実《ゆうそくこじつ》に通じている吉良だった。勅使饗応を命じられた大名は、吉良の手引きがなくては、手も足も出ないのだった。自然、この
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