、本人のお糸への、意地もあった。
何だか、考えこんでいる吉良を見ていて、糸重は、良人の辰馬の顔を思い出してみた。同時に、吉良が気の毒のような感情も、ふっと横切ったりした。
糸重は、泣いていた。
吉良が、いつになくやさしく、
「何を泣く――?」
一寸|逃《のが》れを、いわなければならなかった。
「ほしいものがございます。それさえ下されましたら――。」
「ほほう、物が欲しい。」吉良は、にこにこして、「子供よのう。必ずともに寵愛いたす――との証拠《しるし》にな。面白いぞ。して何が所望《しょもう》じゃ。」
とっさの思いつきに、困って、
「あの――。」
と、部屋中を走った糸重の視線は、違い棚の扇箱にとまった。
「あれか。はっはっは、あの扇箱か。」
糸重は、あわてた。
「はい――いえ、あれに、扇をお入れ下さいまして――そうして、その扇に、ちょっと好みがございます。」
ほっとして、いった。
三
「骨は――と、木を用いて、変り材のごとく観すること、か。厄介なことを思いつきやがったなあ!」
職人のひとり言だった。
吉良からの注文書を置くと、すぐ、奇科百種新述《きかひゃくしゅしんじゅつ》と標題のある工学書を参考して、
「ええと、何だって?――木地を塗りて玳瑁《たいまい》あるいは大理石《マルメル》の観をなさしむる法、とくらあ。まず材をよく磨きてのち、鉛丹《たん》に膠水《にかわ》、または尋常《よのつね》の荏油《えのゆ》仮漆《かしつ》を和《あわ》せたる、黄赤にしてたいまい[#「たいまい」に傍点]色をなすところの元料《もと》を塗る。さてこれに、血竭二|羅度《らど》、焼酎十六度よりなる越幾斯《エキス》にて、雲様の斑点《とらふ》を模彩《うつ》す。かつ、あらかじめ原色料《くすり》をよく乾かすよう注意《きをつけ》、清澄たる洋漆を全面《そうたい》へ浴《あ》びせるべし。」
常磐橋《ときわばし》の東の、石町《こくちょう》一丁目にあって、御影堂《みかげどう》として知られた、扇をつくる家だった。京都五条の橋の西の御影堂が本家で、敦盛《あつもり》の後室《こうしつ》が落飾して尼になり、阿古屋扇《あこやおうぎ》を折って売り出したのが、いまに伝わっているといわれていた。おうぎ形の槻板《つきいた》に、大きく屋号を書いた招牌《かんばん》が、さがっていた。
そこの工作《しごと》場だった。
扇工は、その、指南書のさきを読みつづけた。
「大理石の様模《はだ》をあたうるには、随意《おもう》ところの一色を塗り、これに脈理を施して天然のものに擬《まぎら》し、後に落古《ラッカ》を被《き》せて艶《つや》出しするを善《よし》とす――。」
そして、この式にしたがって、扇の骨に加工しているのだった。
それができ上れば、吉良の意に任す――それまでは、枕を交《かわ》すことはできない、と、糸重が、難題として、吉良に持ちかけた扇子なのだった。
風流人をもって自ら許している吉良だった。この糸重の申し出を、面白い――と笑って、さっそく御影堂へ注文しないわけにはいかなかった。
義兄美濃守が、無事に饗応役を果すまで――それまでにでき上らない扇でさえあれば、何でもよかった。なるたけ時日の費《かか》りそうな、むずかしい扇を、でたらめに考え出した。扇が、例の扇箱に納められて、吉良から下げられない前に、美濃守は、役目を解かれるに相違なかった。そうすれば、糸重は、そっと吉良から脱けて、元のままのからだで辰馬の許へ帰れるはずだった。
吉良は、この扇のことを、女との交渉のまえの、ちょっとした遊戯として、興がっていた。
毎日のように、御影堂へ催促が飛んだ。もうできかかっているのだった。
四
立花出雲守の使者に渡すはずのお次第書を、糸重は、こっそり懐中していた。
お次第書は、追加の御沙汰といって、当の式の順序を認《したた》めた、重要な書類だった。饗応役のもっとも大切な一日を、具体的に説明しているものだった。
人気《ひとけ》のないのを見すまして、背戸の柴折《しお》り戸をあけた。
いつものように、宵闇に紛《まぎ》れて、折助《おりすけ》すがたに装《つく》った辰馬が、ぼんやり佇《た》っていた。
手早く、お次第書を渡しながら、糸重が、
「これは、饗応役の一ばん大事の日のことを、細ごまと書いた、申せば、お役のこつ[#「こつ」に傍点]なそうにございます。立花様から受取りに来られれば、失くなったことがわかって、おっつけ騒ぎになりましょう。」
辰馬は、頬被りの奥から、
「ほかに、心得は?」
「当日は、必ず大紋烏帽子《だいもんえぼし》のこと――。」
「その他――気が急《せ》く。」
垣根を離れて、行こうとするので、
「それから勅使院使さまがお上りのとき、吉良とお取持役おふたりが
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