元来このお役は、難しいといえばいうようなものの、先例もあり、いくらお手前でも、万事は上野《こうずけ》が引き受けます。お指図をいたしますから、何なりとお訊き下すって、大丈夫安心いたされまするよう。一度ならず丁寧な御挨拶に預かり、かえって痛みいります。出雲殿へ、よろしく、申し伝えられたい。」
お糸は、何か胸中にうなずいている態《てい》で、玉虫を送りに、つづいた。
親抱きの松
一
饗応役の打合せに当てられた、城中の仕度部屋だった。
不意の声が、美濃守の首を捻《ね》じ向けた。
「岡部殿!」
吉良だった。
美濃守は、無言で、眼で訊いた。
「――――。」
「お手前は、私に何ごともお尋ねないが、元より御本役をお引受けなされたくらい、万事心得ておらるるであろうの。」
うそぶくように、美濃守が、
「ところが、何も知らぬ。われながら、笑止。」
「とすましておられて、それでよいのか。」
「よいも悪いも、知らぬことはどうにもならぬげな。」
憎さげに口びるを噛んで、吉良は、もう、顔いろが変りかけてきた。
「知らぬことは、どうにもならぬ? よく、さような口が――。」
「が、また、そこはよくしたもので、こうしておれば、貴殿のような親切な仁《じん》が、何かと教えてくれるであろうから、まあ、どうにかなるでしょう。などと考えて、あえてあわてませぬ。」
「多用です。お手前ごときを弄して、暇を欠かしてはおられん。が、当日さし上げるお料理の儀は、いうまでもなく御存じでありましょう。」
「それも御存じないから、呆れたものですな。」
「美濃殿!」
吉良は、この岡部美濃という人間は、莫迦なのか偉いのか、わからなくなって、焦《いら》だった声を出した。
「おふざけ召さるる場合でない。手前の落度になりますから、これだけ申し上げておく――お着の日、御饗餐《ごきょうさん》は、魚類をいといます。精進料理ですぞ。」
美濃守は、弟の辰馬と、このごろまるで筆談のようなことをしているのだった。
今朝も、出がけに辰馬がそっと机上に書いておいた紙片を、美濃守は見ないふりをして、素早く読んできていた。
にっと、笑って、
「いや、吉良殿ともあろう者が、それはとんでもないお間違いです。精物というは、清らかなるものという意、堂上方が、初春《はつはる》の慶賀に御下向なさるに、何で精進料理ということがありましょうや。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は、けっして精進はいたされません。魚類で結構、どころか、魚類でなければならぬ。手前は、誰が何といっても、魚類を進ぜるつもりです。」
吉良は、背骨が棒に化《な》ったように硬直して、唾を呑《の》んでいるだけだった。
手が、自動的に、ひらいたり閉じたりして、袴の膝を握りしめていた。
二
「いえ、けっして、お思召しに添わないなどと、さようなことを申すのではございません。ただ――。」
押さえ来かかった吉良の手だった。それを、あまり強く払ったことに気づいて、お糸は、はっとしていた。
ここで、こんなことで露顕しては――と、お糸の糸重は、無理に艶《つや》やかな媚笑《わらい》を作った。
「そのお約束で、御奉公に上っております糸でございます。何で御意《ぎょい》に抗《さから》いましょう。殿様さえお心変りなさらなければ、末長く――でも、きっとすぐお飽きになって――。」
いいながら、いくら間者《かんじゃ》としても、心にもない言《こと》を――と思いながらも、糸重は、現在、良人、良人の兄、自分を苦しめている吉良へ、こんなことまで口にして、媚《こび》を、と、ぞっとした。
刺し殺したいほど、吉良への憎悪に燃えた。
「ただ、何だ――それなら、なぜ肯《き》かれぬ、と申すのじゃ。」
蒲団にすわった吉良は、みょうに白けた顔で、眼が、異常に光っていた。
はらわれた手のやり場に困って、襟をかき合わせた。
乾いた音だった。
「妾が――意に添うも添わぬもないはず。理由《わけ》を申してみい。」
いつものように、吉良の就寝を見て、自室《へや》へ引きとろうとしていた糸重だった。軽くあらそった衣紋の崩れをなおして、夜着の裾のほうに、遠くすわっていた。
「わけと申して、べつに――。」
吉良は、何気なくよそおっていた。が、老人《としより》らしくもなく、手出しして拒《は》ねられたという照れ臭さが、寝巻きの肩のあたりに見られた。
しかし、お糸は、はじめから妾に来たのだった。妾に、こんな手間ひまのかかる女が、あってもいいものだろうか、と、吉良は、不思議な気がした。ばかばかしく思った。
いっそ暇を――が、そうもならなかった。それは、たんに未知へのあこがれかもしれなかったが、いつの間にか、愛着らしいもののできているのも、いなめなかった。平茂と
前へ
次へ
全12ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング