を下げているようすだった。

      五

 平茂が、目見得に伴《つ》れてきて、ちょっと顔を見た時から、吉良は、気に入ってはいた。
 が、何となく、したしみ難いところがあった。といっても、妾《めかけ》奉公を承知で来ている女には違いなかったから、いずれは、先方から、そんな意味でのつとめを申し出るであろう、と、吉良は、そのままにして、迫らないでいるのだった。
 夜になって、吉良が寝《しん》につく世話をしてしまうと、女は、さっさと自分の部屋へ退って行った。側女《そばめ》として来ているのに、そうすることが当然であるような、女の態度だった。しかし、格別避けているようでもなかった。何でも、はきはき返辞をするし、愛想はいいのだった。
 名を訊くと、お糸といった。請人《うけにん》の平茂の話では、親元は、長谷川町のほうで仏具師をしているとのことだった。吉良には、お糸がどんなつもりでいるかわからなかったが、了解《りょうかい》しているはずのことをことごとしくいいだすのも業腹《ごうはら》だったし、それに、食べようと思えばいつでも食べられるものを、眼のまえに見ながら、いつでも食べられるだけに、そして好きなものだけに、いつまでも食べないでいるのも、老人らしい吉良の趣味に合わないでもなかった。
「変った女だ――。」
 こっちからは手出しをすまい。どういう気か、黙って見ていてやろうと吉良は思った。
 で、吉良の床をとって帰って行くお糸を、一度も引きとめはしなかった。朝、洗面の手つだいに顔を出すまで、呼びもしなかった。名ばかりの妾のまま、日が経って行っていた。
 馬鹿にされているような気がしないでもなかった。
 吉良のこころに、女性とのあいだにそういう話をすすめるという、忘れていた、若わかしい興味も起こって、
「は、ははは、一つ、今夜あたり口説《くど》いてみるかな――。」
 口のなかでつぶやいて、苦笑している時だった。
 明るい色が、控えの間のさかいに動いて、そこに何の屈託《くったく》もなさそうなお糸の顔があった。
 通りすぎるほど通っている鼻すじだった。それが、すこし険のある表情にしているのかもしれなかった。
 敷居《しきい》に、三つ指をついていた。
 重い髪を、ゆらりと上げかけて、
「あの、立花様から、お使者の方がお見えになりましてございます。夜中ながら、お役柄の儀につきまして、ちょっとお上に伺いたいことがございますとか――お通し申しましょうか。」
 お糸の白い額を見ながら、いったい、取次ぎにこの女を雇ったはずではなかった、と、吉良は思った。
 じっとお糸に眼を据えて、無言でうなずいていた。

      六

 玉虫|靱負《ゆきえ》は、立花出雲守の公用人だった。一間に案内されて、待っていた。
 正面のふすまが、左右にひらいて、ふところ手の吉良が、せかせかした足どりではいって来た。
 腰元らしい女をひとりしたがえているのを、玉虫は、平伏しながら、上眼づかいに見ていた。
「どうもおそく参上いたしまして――。」
「いや、なに、かまいません。」
 吉良が、痩せた膝を座蒲団にならべると、女も、そのうしろに引きそうように、すわった。
 用談を持ってきた客には、吉良は、気が短かった。
「お役目のことといえば、御主人出雲殿の饗応お添役についてでしょうが、どういう――。」
 すぐ、吉良からきりだした。
 用人の左右田《そうだ》孫三郎が、縁の障子の根に、ななめに顔を見せていた。
「申し上げます。ただ今、立花様より、家老へ白銀十枚――。」
「これは、これは。そうたびたび、恐縮ですな。」
 吉良は、礼のための礼のように、冷淡をよそおっても、出雲守へ好意を示したいこころが、声に滲《にじ》んでいた。
「お役上、何か御不審でも――。」
「は。御饗応にさし上げますお料理のことでございます。」
「その料理を――。」
「当日は、清らかなお席、生臭《なまぐさ》を断《た》って精進《しょうじん》精物でございましょうか。」
「いや、精物というは、潔《きよ》きものという意です。堂上方が、初春慶賀のため御下向なさる。たとえ精進日であっても、江戸お着の当日は必ず御精進はいたされません。魚類は結構、と申すより、魚類でなければなりません。」
「ありがとうございました。じつは、お精進ものであると申すものと、いや、魚類だという者と、二派に別れまして――そのため、たしかなことを承《うけたまわ》りに上りましたようなわけで。」
 吉良は、権威者らしい微笑を漂わせていた。
「精進だなどと、どなたがそんなことをいったかしらんが、断じて精進ではない。今申したように、精進日でも、魚類です。」
 吉良の背ろに控えているお糸が、玉虫と同じように、終始緊張して聴いていた。
 礼を述べて、起とうとする玉虫へ、吉良が、いった。

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