し》を前篇四冊後篇三冊に編んだもので、三馬としては当て込みを狙ったちょっと得意の作であった。絵の勝川春亭とは以前にもよく組んだ。文化五年に三馬が「力競稚敵討」を書いて近江屋権九郎版で出した時も※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵は春亭だったが、戯作の絵に筆を執ること十年で多分に自信のある春亭の努力を無視して、三馬は式亭雑記にこんなことを書いた。
「尤《もっと》も春亭、画図|拙《つたな》くして余が心にかなわざるところは板下をも直して、悉《ことごと》く模写を添削《てんさく》したる故大当りとなりぬ。」
 また書いた。
「故におもわずも其年の大あたりにて、部数他の草紙に比して当年の冠たり。」
 これを聞いて、絵草紙の売れ行きは一に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画のためと鼻をうごめかしている春亭は非常に感情を害した。そこへ翌年三馬の「於竹大日」の原稿が廻って来た。癪に触っているから春亭はうっちゃらかしておいて後から来た京伝のお夏清十郎物に精を出して描いた。
 三馬は本石町四丁目新道の家で参考書も不自由な物侘びしい中で
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