井川の川止め、江戸へ出ると三社前の水茶屋女、見覚えのある編笠姿、たそや行燈、見返り柳、老父の病いを癒すべく朝鮮人蔘を得るための娘の身売り、それを助ける若侍、話し合ってみればそれが幼時に別れた兄妹、それから手掛りがついて仇敵の所在がわかり、そこで鎖帷子《くさりかたびら》、名乗り合い、本懐遂げて帰参のよろこび、国許に待つ許婚と三々九度といったようなどれもこれも同じようなものであった。忍術とか鬼火、妖狐、白髪の仙人、夢枕というような場面が全巻いたるところに散見して、一様に血みどろの暗い物語であった。
 貼外題《はりげだい》の黄色がいつからともなく表紙の色となって一般に黄表紙と呼ばれるようになってから、仇うち物の血生臭さはいっそう度を増したように思われた。長さも長くなった。一冊の紙数五枚となっていたのを幾巻か合わせるようになってこれを合巻と呼んだ。長いほうが読みでがあるので合巻は歓迎された。草双紙とも絵草紙ともいったがそれはともに合巻を指した。京伝の義弟山東京山がその作「先読《まずよんで》三国小女郎」のなかで「今じゃ合巻といえば子供までが草双紙のことだと思いやす」とある、これは文化九年のことだが、この三馬と六樹園の会ったころは合巻の出はじめたころで、その合巻に先鞭をつけたのはじつに三馬その人であった。
 こうして長篇全盛の世となるに及んで、作者は競って工夫を凝らし、仇敵討物はますます凄惨な作意に走ってその残酷|面《おもて》を外向《そむ》けしむるものが多かった。洒落を生命としていた巷間の戯作は、江戸風のいわゆる通人生活の描写から、悪ふざけが嵩《こう》じて遊里の評判、時の政道のそれとない批判まで織りこむようになり、寛政度のお叱りにあって一転し、善玉悪玉の教訓物となったが、やがてそれもあかれて今この実説風の敵討物万能となったのである。
 六樹園ははじめこの流行に苦笑していたが、あまり度を外した血腥《ちなまぐさ》い趣向立てに、婦女童子に害あり、人心を誤るものという意見で非常に憤慨していた。
「忠臣孝子に思わぬ辛苦を舐《な》めさせ、読む者をして手に汗を握らしむるのはいいが、君子は庖丁を遠ざくと言います。御存じでしょうが、ここに面白いことが書いてある。」
 そう言って六樹園は立って行って本箱をしばらく探していたが、やがて一冊の草紙を持って座に帰ったのを見ると、それは文化二年に出た、竹塚
前へ 次へ
全13ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング