《たけづか》東子《とうし》の「父母怨敵現腹鼓《おやのかたきうつつのはらづつみ》」であった。
 六樹園はその序を開いて三馬の前に読み上げた。
「今や報讐《かたきうち》の稗史《そうし》世に行われて童児これを愛す。実《げ》にや忠をすすめ孝にもとづくること、索《なわ》もて曳くがごとし。しかしその冊中面白からんことを専にして死亡の体《てい》を多くす。頗《すこぶ》る善を勧め悪を懲すの一助なるべけれど、君子は庖丁を遠ざくるの語あり。」
 その冊中面白からんことを専にして死亡の体を多くす、と六樹園はそこを二度繰り返して読んだ。そして滔々《とうとう》たる悪趣味に身震いせんばかりの顔で三馬を見やった。
 三馬は黙ってにやにやしていた。六樹園が訊いた。
「尊家はこの愚劣なる敵討物にはあまり筆をお染めにならんようでありますな。宇田川町の大人もたしかに才人ではあったが、悪い風を作られたものです。」
 宇田川町の大人とは敵討物の大御所|南仙笑《なんせんしょう》楚満人《そまびと》のことであった。楚満人の作は三百余種もあったが代表作敵討三組盃をはじめそのほとんど全部が仇うち物であった。楚満人が持て囃されてから作者は皆敵討ものに引きずられて、よりいっそう事件を複雑にし、新奇を求め、刺激を強くするために、眼を覆いたいような惨忍な文章と絵を、つとめて一斉に仕組むようになったのであった。まったくこれでもかこれでもかといった風で中でも最近に出た「復讐熊腹帯《かたきうちくまのはらおび》」京山作、歌川豊広画くなどはまさにその絶頂の観があった。
「私は敵討物はあまり好みません。」
 と三馬が答えた。式亭雑記の中にも「おのれ三馬敵討のそうしは嫌いなりしが」とあるとおりである。
「しかし、今も申した米塩《べいえん》のためには敵討ものも書かねえというわけではねえので。」
 六樹園は明らかに、嫌な顔をした。三馬は構わずにつづけた。
「当節流行の合巻のはじまりは、あっしの「雷太郎強悪物語《いかずちたろうごうあくものがたり》」でげすが、あれは浅草観音|利益《りやくの》仇討というまくら書きがありやすとおり、敵うち物でげす。宇田川町とは友達でげすので、まあ宇田川町の尻馬に乗ったようなものでげす。かつは西宮にそそのかされて雷太郎強悪物語十冊ものを前後二篇、合巻二冊に分けて売り出しやしたが、これは大当りを取りやしたな。」
 ほとんど
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