仇討たれ戯作
林不忘
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)六樹園|石川《いしかわ》雅望《まさもち》は
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)六樹園|石川《いしかわ》雅望《まさもち》は
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画家と
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一
六樹園|石川《いしかわ》雅望《まさもち》は、このごろいつも不愉快な顔をして、四谷内藤新宿の家に引き籠って額に深い竪皺を刻んでいた。
彼はどっちを向いても嫌なことばかりだと思った。陰惨な敵討の読物が流行するのが六樹園は慨嘆に耐えなかったのである。
客あれば彼はよくこの風潮を論じて真剣に文学の堕落を憂えたものであった。
一度三馬が下町の真ん中からぶらりとこの山の手の六樹園|大人《たいじん》を訪れたことがあった。文化三年の火事に四日市の古本店を焼け出されて、本石町新道《ほんこくちょうじんみち》に移ってからで、式亭《しきてい》三馬はその戯作道の頂天にある時代だった。酒飲みで遊び好きの三馬は、またよく人と争い、人を罵って、当時の有名な京伝《きょうでん》、馬琴《ばきん》などの文壇人とも交際がなかった。ことに曲亭《きょくてい》とは犬猿の仲であった。馬琴の眼には三馬などは市井《しせい》の俗物としか映らなかったし、三馬は馬琴をその傲岸憎むべしとなしていた。この驕々たる三馬が一日思い立って日本橋から遠い四谷の端れまで駕輿《かご》をやったのは、狂歌師|宿屋《やどや》飯盛《めしもり》としての雅望と、否、それよりも六樹園の本来の面目である国文学の研究に少からず傾到するところがあったからだ。
婢《ひ》が書斎の六樹園の許に刺を通じて、
「菊池太助さまとおっしゃる方がお見えになりましてござりますが。」
と言った時六樹園は誰だかわからなかった。もう一度訊き返せと命じて婢を玄関へ去らせた。するとすぐ引きかえして来て、
「しゃらくさい、とおっしゃるだけで。」
と女中は口を覆って笑った。
「洒落斎《しゃらくさい》、おう、式亭どのか。」
と六樹園はその一代の名著|雅言集覧《がげんしゅうらん》の校正の朱筆を投じて立って三馬を迎い入れた。
語る相
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