鍛冶《こかじ》宗遠《むねとお》を殺《あや》め、仇敵と狙われることになったのをいいことに、敵討興行の看板を揚げて勝負をしようとしたところが、自分に余計な助太刀があらわれて相手を返り討ちにしてしまった。あまりの不憫《ふびん》さに無常を感じ、法体となって名を蔵主《ぞうす》と改めたと見しは夢、まことは野原の妖狐にあべこべに化かされて、酒菰《さかごも》古畳《ふるだたみ》を袈裟《けさ》衣《ころも》だと思っていたという筋である。
 いかさま低級な、人を小馬鹿にした話で、これが受けないわけはないと六樹園は大変な意気込であった。
 六樹園はこの巻の終りにこう書いた。
「この本に誰ひとり怪我をした者がない。この上もなくめでたいめでたい。」
 と思う存分一世を皮肉ったつもりであった。
 ところがこの「敵討記乎汝」は出版されてみるとすこしも売れなかった。洛陽の紙価を高めるどころか何の評判も聞かなかった。六樹園はことごとく案に相違してひどく気に病んだ。出版後それとなく出入りの者に噂のよしあしを訊いてみたり、当分のあいだ家人をあちこちの床屋や湯屋や人の集まる場所へやって探らせてみたが、そういうところでの評判は相変らず低級な戯作者どもの作品ばかりで「敵討記乎汝」の一篇は脱稿と同時にまるで火をつけて燃やしたようで、てんで存在しないもののごとく何人の口の端《は》にも上らなかった。
 受けないはずはないが、何がたらないのだろうと、六樹園はちょっと悩んだ。結局、これでもまだ程度が高いのだろう、大衆はなんという低劣なのであろうと考えて、それでやっと自らを慰めたが、どこからか敵討記乎汝と自分が言われているようで、当分不愉快でならなかった。

      四

「七役早替。敵討記乎汝」六樹園作、酔放《すいほう》逸人《いつじん》画《が》の六冊物が世に出たのは文化五|戊辰年《ぼしんのとし》であった。
 一方、三馬は六樹園との競作の約束などはすっかり忘れて相変らず本石町新道の家で何ということない戯作三昧《げさくざんまい》に日を送っていた。
 彼は文化[#底本では「文政」]七年に「於竹大日忠孝鏡《おたけだいにちちゅうこうかがみ》」という敵うち物を出して相当のあたりを取った。それは善悪両面と鏡の両面に因《ちな》んだ枕がきのついた七冊続きであったが、画工の勝川《かつかわ》春亭《しゅんてい》と争いを起してここにはしなくも文
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