壇画壇のかなり大きな事件となった。
 三馬はその性質のせいかよく※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画家と喧嘩をした。阿古義《あこぎ》物では豊国と衝突して、版元|文亀堂《ぶんきどう》の扱いでやっと仲直りし、この同じ文化七年に同店から出した「一|対男時花歌川《ついおとこはやりのうたがわ》」で再び作者三馬と画工豊国とを組ませて、納めることができたのに、またここに今度は春亭とぶつかってしまったのである。
 この「於竹大日」は、安永六年に芝の愛宕で開帳した出羽国湯殿山、黄金堂玄良坊、佐久間お竹大日如来の縁起を材料にしたもので、その時にも青本が行われたのを三馬がいま黄表紙に仕立てたものである。業病、冥府《めいふ》、変化《へんげ》の類が随所に跳梁する薄気味の悪い仇うち物であった。ぞっとするような陰気な絵面ばかりなので春亭もあまり絵筆を持つ気がしなかったほどであったが、それが紛争の因《もと》で、相手が三馬なのでこじれるだけこじれて行った。
 版元は鶴喜《つるき》であった。一時|喧伝《けんでん》された奥州佐久間の孝女お竹なる者が生仏として霊験をあらわすという談《はなし》を前篇四冊後篇三冊に編んだもので、三馬としては当て込みを狙ったちょっと得意の作であった。絵の勝川春亭とは以前にもよく組んだ。文化五年に三馬が「力競稚敵討」を書いて近江屋権九郎版で出した時も※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵は春亭だったが、戯作の絵に筆を執ること十年で多分に自信のある春亭の努力を無視して、三馬は式亭雑記にこんなことを書いた。
「尤《もっと》も春亭、画図|拙《つたな》くして余が心にかなわざるところは板下をも直して、悉《ことごと》く模写を添削《てんさく》したる故大当りとなりぬ。」
 また書いた。
「故におもわずも其年の大あたりにて、部数他の草紙に比して当年の冠たり。」
 これを聞いて、絵草紙の売れ行きは一に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]画のためと鼻をうごめかしている春亭は非常に感情を害した。そこへ翌年三馬の「於竹大日」の原稿が廻って来た。癪に触っているから春亭はうっちゃらかしておいて後から来た京伝のお夏清十郎物に精を出して描いた。
 三馬は本石町四丁目新道の家で参考書も不自由な物侘びしい中で
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