か。
郁之進 池田の怒るのが、おれにはすこしもわからん。彼男《あれ》は、とんでもない邪悪な考えに取り憑《つ》かれておる。うん、立てるとも。
森 (植込みの奥を見こんで)おう、もうお歌の会がはじまりそうだ。さ、行こう。
郁之進 おれはこの衣紋の崩れを直してから行く。貴公、構わず先に行ってくれ。
森 そうか。では、待っているぞ。(去る)
郁之進 (そのうしろ姿をじっと見送って、独り言)池田といい、森と言い、揃いもそろっておれを疑っておる。ああ情ない。どうしてこのおれの、殿に対して何らの異心も無いこの胸の内が通ぜぬのだろう。まだ誠がたらぬのか。(と地《つち》に坐って考え込み、はてはぴたりと両手を突いて、うな垂れる)
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奥の大広間。正面に開かれた襖の外に廊下、その向うに宵闇の迫る庭が見える。
お加世の父、お納戸役人吾孫子なにがしというおどおどした老人が、池田、森の両人と対坐している。
お坊主がはいって来る。
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坊主 (三人へ)ただいま殿には、お歌の会を御中座なされて、ほどなくこれへお渡りになります。
池田 さようですか。これはどうもお使い御苦労。(吾孫子老人へ、前からの話をつづけて)それが、いかに鎌を掛けても、けっして本音を吐かんのですよ。
森 気の弱い男だ。いや、あの、何のうらみも抱いておらぬという、あれがきゃつの本音なのさ。
池田 たといいくら気の強い男でも、相手が藩公ではなあ、はっはっは。
吾孫子 いや、寝覚めの悪い思いをします。こういうことになって、私も思わぬ出世をさせていただくとわかっておったら、もうすこし嫁入りさせずに置くんじゃった。ちと早まりましたて。
池田 なに、あの生《なま》っ白《ちろ》い税所輩が、生意気千万にも、絶世の美人お加世どのを妻にしたりするから、かようなことになるのだ。いや、いい気味というものだ。
森 そうだ。釣り合わぬは不縁の因《もと》といってな。これでやっと腹の虫が納まったぞ。
池田 事に托して、あいつを蹴倒してやった時には、春以来のこの胸が、どうやらすうっ[#「すうっ」に傍点]といたしたよ、あはははは。
森 しかし、貴公のあの過激な議論には、ちょっと驚いたぞ。
池田 敵を欺《あざむ》くには、まず味方をあざむけ、いや、第一に己れを欺けさ。なんにしても殿のお手で、あのお加世どのが税所のふところから取り上げられたのだから、こんな痛快なことはない。
吾孫子 いやどうも、何やかやと皆さまをお騒がせして、申訳ありませぬ。が、私は郁之進に気の毒で、あれの顔が見られん仕末で――。
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正面の庭の燈籠に、腰元が灯を入れてゆく。殿の出御近しと知って、三人はいずまいを直す。二つ折りの褥を捧げた侍女がはいって来て、上手に座を設ける。
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稲生播磨守 (廊下を近づく声)ああもう歌などどうでもよい。飽きた、飽きたぞ。
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はいって来て座につく。四十五、六の癇癖の強そうな大名。刀を持った子供小姓、つづいてお加世、侍女三、四、それぞれの席にい流れる。
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播磨 (平伏した三人へ)どうだ、税所の気が知れたかな。(と大欠伸をする)
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お加世はうつ向く。
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池田 恐れながら、かねての殿のお命令《いいつけ》に従い、きやつの胸に探りを入れてみましたところ、まったく異心は無いものと見受けましてござります。
播磨 ふむ、そうかな。いやあたり前だ。異心などあってどうする。
森 身にあまる光栄だと申して、よろこんでおりまする。
播磨 うむ。そうあるべきところだ。ははははは、いや、しごく当然の話だ。(振り向いて)加世、聞いたか。これでそちのその小さな胸も、晴れたであろう。この上は、心置きなく余の寵愛を受けい、なあ。
吾孫子 (ひれ伏して)なにとぞ、末始終お眼をおかけ下されまして――。
お坊主 (次の間の敷居ぎわへ来て)申し上げます。皆様|彼室《あちら》でお待ちかねでいらっしゃいますが、お歌のほうは、もはや――。
播磨 歌はもうよしたぞ。重立った者だけ、こちらへ話しにでも来いと申せ。
池田 では、われわれは――。(と森へ眼まぜして、退《さが》ろうとする)
播磨 いや、苦しゅうない。そこにおれ。
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歌会の席から、家老矢沢某、ほか重役重臣ら二十人ばかりはいってくる。他藩の士も招かれて来ている。
中に、当時刀の観相家として知られた某藩の久保奎
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