わんでどうする。
池田 そうかなあ。この、遠くから近づいて来る世の大変革の跫音《あしおと》が、君にはすこしも聞こえんのかなあ。
郁之進 (色を為《な》して)いかなる大変革があろうとも、君臣の大義が崩れてたまるものか。
池田 新妻を召し上げられても、君は今でもそう思っているのか。
森 本心を聞かしてくれ、本心を。
郁之進 本心もうそ[#「うそ」に傍点]心もあるものか。それとこれとは別だ。それはおれも、悩んださ。うむ、今でも悩んでおらんとは言わぬ。
[#ここから3字下げ]
森と池田は、ちら[#「ちら」に傍点]と顔を見合わせる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
池田 そうだろうとも。いや、人情そうあるべきところだ。
郁之進 お恥かしい次第だが、当座は、あの加世《かよ》の面影が、眼前にちら[#「ちら」に傍点]ついて――。
森 藩中第一の美女、お加世どのだからなあ。じつは、あのお納戸役|吾孫子《あびこ》殿の娘御お加世どのは、誰の手に落ちるかと、われわれ一統、手に汗握る気持ちで眺めておったのだ。自薦運動も大分猛烈だったからな。
池田 (そっと森を小突いて)それを税所が、めでたく中原の鹿を射て、この春いよいよ華燭《かしょく》の典を挙げた時には、なあ森、白状するが、少々|嫉《や》けたなあ。
森 うむ、あの晩は大分あちこちで、自暴酒《やけざけ》をやった士《やつ》が多かった。面目ないが、おれと池田も、じつはその組で――。
池田 (うな垂れている郁之進を覗いて)それほど藩中の羨まれものだった貴公が、あんなに美しい掌中の玉、恋女房のお加世どのを殿に召し上げられたのだ。すこしは口惜しいと思わんか。
郁之進 それは人間自然の情で、口惜しいと思ったこともあるさ。
池田 (森に眼配せして)なに、口惜しいと?
郁之進 うむ、悲しみもした。苦しみもした。だが、その気持ちはみんな去った。今はもう何とも思っておらん。相手は殿じゃあないか。どうにもならん。ははは、いや、どうにもならんというよりは、あんな不束者《ふつつかもの》がお眼に留まって、お側へとのお声がかかり、おれはほんとうに光栄だと思っている。ありがたいと思っている。加世は、謹しんで殿へ献上したのだよ。どうかもう心配しないでくれ。
[#ここから3字下げ]
突如池田が足を揚げて、郁之進を蹴倒す。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
池田 意気地なし! 武士の風上に置けんやつとは、貴様のことだ! 人心はすでに殿を離れておるのだぞ。この腐れかかった封建制度は、今にも倒れんとしているのだ。おれにはそれがよくわかる。誰か一人、ここで下剋上《げこくじょう》の口火を切る者があれば、天下|挙《こぞ》って起ち上るのだ。臣下が主君に怨みを報ずる。じつに驚天動地の痛快事じゃあないか。それには今貴様は、絶好の立場におるのに――。
郁之進 (地面に転がりながら、冷静に)殿に恨みを報いる? なんでおれがそのような――考えるだにもったいない!
池田 貴様は、人間としてなっておらん。うぬ! こうしてくれる!
[#ここから3字下げ]
ぺっと唾を吐きかけて、池田は立ち去る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
郁之進 (倒れたまま、その唾を拭いもせず夢みるような独り言に)あの日、先殿様の御命日に、殿が随福寺へお成りのみぎり、選ばれてお茶を献じた加世めが、畏《おそ》れ多くもお眼に触れて召し上げられた――。
森 (同情するように、また焚きつけるように)うむ。そうだということだなあ。それも、娘のうちならまだしも、君という立派な良人のあることを、殿もよく御存じのくせに――いや、君も知ってのとおり、池田はすぐ激昂《げきこう》する性《たち》で、気の毒だったが、しかし、何といっても殿の今度のなされ方は、すこしお手荒だったよ。老臣たちはことごとく憂慮しておる。また、われわれ一同君の気持ちを察して、殿を憎んでおるのだ。
郁之進 お手荒? いやいや、そんなことはけっしてない。そこが君臣ではないか。殿をお憎み申し上げるなどとは、もっての外だ。
森 しかし、人倫《じんりん》の大道に反く以上、殿といえども、そのままには――。
郁之進 いやいや! 滅相《めっそう》な! 殿の一言一行こそは、善悪を超えて、そのまま人倫の大道と申すべきだ。もう言うな。加世がお側へ召されて、もう十日になる。お気に入るように勤めていてくれればよいが――。
森 (じっと相手の表情を注視して)聞くところによれば、お加世どのは君を慕って、泣いてばかりおるということだ。
郁之進 なんという不届きな! おれはそれを聞くと、加代の心得違いが情なくて、涙が出る。なみだが出る。(と泣く)
森 さあ、起てる
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング