稲生播磨守
林不忘
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)小石川御箪笥町《こいしかわおたんすまち》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中小姓|税所郁之進《さいしょいくのしん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)うそ[#「うそ」に傍点]心もあるものか
−−
[#ここから3字下げ]
天保のすえ、小石川御箪笥町《こいしかわおたんすまち》の稲生播磨守《いのうはりまのかみ》の上屋敷。
諸士の出入りする通用門につづく築地塀《ついじべい》の陰。夕方。杉、八《や》つ手《で》などの植込みの根方に、中小姓|税所郁之進《さいしょいくのしん》と、同じく中小姓池田、森の三人が、しゃがんで話しこんでいる。
池田は昂奮し、税所郁之進は蒼白《まっさお》な顔で、腕を組み、うなだれている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
池田 君主は舟、臣は水。舟を浮かべるは水なり。舟を覆すもまた水なり。為政者《いせいしゃ》の心すべきところだ。それだのに殿は――。
森 しっ! 人に聞かれたらどうする。税所の迷惑を考えろ。
[#ここから3字下げ]
奥に何か催しがあるらしく、羽織袴の藩士たちが続々門をはいって来て、声高に談笑しながら、三人の横を通り過ぎて行く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
池田 いや、このたびの殿の御乱行には、彼らの中の心ある士《もの》は、みな眉を顰《ひそ》めておるのだ。聞こえたとてかまわん。
森 税所! 貴公の心中は察するぞ。いったいいつこんなことになったのだ。
郁之進 (二十四、五の美男。低いふるえ声で)もうその話は止してくれ。おれは何とかして忘れよう、この胸から取り去ろうと努めているのに、君らはそうやって僕を問い詰めるとは惨酷じゃあないか。
池田 (森と顔を見合わせて)もっともだ。そう思うのも無理はない――が、おれたちは貴公に同情して、友人として君を慰めようと――。
郁之進 その友情があったら、何も言わんでくれと頼んでおるのだ。
森 しかし、黙視するに忍びんから――。
郁之進 黙視できぬ? では、森に訊こう。どうしたらよいというのだ。
[#ここから3字下げ]
池田と森は無言に落ちる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
郁之進 (せせら笑って)それ見ろ。口を噤《つぐ》むよりしようがあるまい。長いものに捲かれろという言葉もある。いや、さような俗言を藉《か》らずとも、先は殿だ。何のおれに、恨みがましい気持ちがあってなるものか。そんな心は微塵《みじん》もないぞ。(言いきる)
池田 藩主と家臣――藩主は、欲しいものがあったら、家来から何を奪ってもいいものだろうか。新婚の夢|円《まど》らかな妻をさえも――こういう主従の制度は、いったい誰が決めたのだ。
[#ここから3字下げ]
郁之進も森も、考えこむ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
池田 要するに、扶持米《ふちまい》を貰って食わせてもらっておるから、頭をさげる。それだけのことじゃあないか。おれは、こういう世の中の仕組みは、遠からず瓦解《がかい》するものと思う。何かしら大きな変動が来るような気がしてならんのだ。いや、来べきだ。どことなく、そのにおいがする。
森 (恐しそうに)おれたち武士《さむらい》の先祖たちは、ほんとうに、主君に対して文字どおり絶対服従だったのだろうか。
池田 そりゃむろんそうだとも。おれたちもそれを教え込まれてきた。叩きこまれてきた――だが、おれは近ごろ、人間と人間とのそうした関係に、どうも疑いを持ちはじめてきたのだ。これでいいものかどうかと――。
森 主君の欲《ほっ》するところには、絶対に服従する。ふふうむ、絶対に、理も非もなく――。
池田 何らの大義名分がなくとも、腹を切れと言われれば、即座に腹を切る――切れるか貴公。森、貴様はどうだ。
森 うむ、切る――つもりで、今日まできたが、すこしどうも変だな。
池田 そちの妻を夜伽《よとぎ》に――と言われたら?
郁之進 (狂的に両手で耳を抑さえて)またそれをいう。またそれを言う。
森 そうだ! 長続きせんぞ、こういう君臣の関係は。
池田 おれたちは若いから、世の移り変りを早く予感できるのだ。いずれ、何かある、何か起るぞ、きっと――。
郁之進 (顔色を変えて)いや! そんな馬鹿なことがあるものか。君臣の義は大磐石だ。また永代大磐石にするのが、われわれのつとめなのだ。そんな怪《け》しからぬ疑念を持って、どうして御奉公がつとまる! 不届きなことを言うやつだ。
森 貴公ほんとうにそう思うのか。
郁之進 そう思うかとは情ない奴だ。そう思
次へ
全9ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング