うっ[#「すうっ」に傍点]と細い、熱い女の吐息を感じた。
「あ、ああう」
うめき声が女の口からもれて出た。
それでもまだ、動いてはならぬ。
動いてはならぬ。
「い、生きとる、はははっははは」足を引いて、侍は笑った。
「なに、わしははじめから、立派に、い、生きとることは知りおった」
「死んだまね、ちっ! 強情な奴にござりますな」
「いや、し、失神致しておるようじゃ」
「いかが取り計らいましょう」
「そ、そちの申すとおりの美人なら、つ、使いみちもあろうて。休ませて、て、て、手当てをしてつかわせい」
「と致しますと、むこうのお屋敷へでも?」
「そうじゃ。一間に、と、床を延べて、寝かす用意を調えたうえ、たた、丹三《たんざ》を連れて参って、しょわせて行くとしよう」
もうのがれる術《すべ》はないと、女は闇黒の中に大きな眼をあいて、二人の会話《やりとり》を聞いている。
「ではすぐあちらへ?」
「うむ。そ、そちも来い」
「しかし、この女をひとり残して――」
「あ、足腰が立つまいによって、にに、逃げる心配は無用じゃ」
どうぞ二人で行ってくれますようにと祈っていると。しめたっ!
しめた!
部屋を出た二人の跫音《あしおと》。それが前後して階段をおりて、しばらく階下《した》に響いていたが、おいおい遠ざかっていっしょに家を離れて往くまで、女も身動き一つせずに畳にはっていた。やがて、広い邸内に人のいないことを確かめた女は、両腕に力を込めて、むっくりと起き上がった。
「馬鹿にしてるよ、ほんとに」
と手早く帯を締め直して、
「さんざ人を踏み付けにしやあがって、くやしいったらありゃあしない。足の指へでもくらいついてやりゃあよかった。何だい、だからあたしゃ屋敷者はきらいさ」
こんなところに長居はごめん。
今のうちに一時も早くと、かいがいしく裾をからげて、女は手探りで縁へ出た。
家には調度もなく、がらんとしたようすが空家らしい。
さっきの足音のあとをたどる気。
梯子段《はしごだん》をおりて下座敷。そろり。そろりと中廊下を、突き当たっては曲がり、ぶつかっては折れして往くと、行く手から露っぽい外気が、煙のように暗黒をさいて来て、廊下のはずれは出入口らしく、ほんのりと夜光が浮動している。
われ知らず、女の歩調が早くなったとき、
「ちっとあやかりてえものでごぜえます。へえい! そんな美的がころげ込んで来るたあ、殿様も有卦《うけ》に入りましたね」
という大声がして、ぬっ[#「ぬっ」に傍点]と戸口がふさがった。
生返事の殿様の先を、二人の男が上がってくる。
猫侍の主従が、丹三とやらをつれて来たらしい。
この長廊下、とっさに隠れ場はない。
ええままよ、猫侍にみつかったらその時のことだ!
女は暗い側を選んで、廊下のかべに腹合わせに、身を押し付けて立った。
声高《こわだか》に笑いあって、三人の男が近づく。
みっし、みっしとうしろに板敷きがきしんで、今手がかかる! と思ったとき、三人の着物がすれすれに女に触れて、話し声とともに夏の雷のように通り過ぎた。さすがの猫待もうっかりしていたものと見える。
その足音が階段を上るのを聞きすまして、女はちろり[#「ちろり」に傍点]と戸外へ出た。
夜の庭。
ぴったりと建物に沿うて、陰を縫ってしゃにむにに走ると、夜眼にも白い門内の小砂利道《こじゃりみち》、ちょっと背後の気はいをうかがったのち、まもなく女は、横町と見える狭い往来に立っていた。
ほっと安心。
「ああ、よかった!」
命拾い。
どこでもいい。どっちの方角でもかまわない。このうえはただ一歩でも遠く、この気味の悪いがらあき[#「がらあき」に傍点]の屋敷を離れたいと、女は、はだしに夜露を踏んで、よろめきながら、かけ出した。
このとき、二階の部屋へはいった三人の男、見まわすまでもなく女の影も形もない。
「それ御覧《ごろう》じ、御前、みんごと抜けられたではござりませぬか」
いまいましそうにいったのは猫侍。
「えっ! 逃げた※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
丹三がとんきょうな声をあげた。
「なあに、きっとまだお庭にうろうろしていまさあ。私が行って引っつかまえて来やしょう」
「まま、待て。た、丹三、待て」
とび出そうとするところを、呼びとめた吃りの侍、ぐっと丹三の肘《ひじ》をとって引き寄せて、何事か低声《こごえ》にいい含める。
こうしてああしてと、計略でも授けているらしい。
三人寄れば文珠の智恵。
どうせろくな相談ではあるまい。
「では、あの、私が――」
丹三がうれしがって叫んだ。
「そ、そうじゃ。き、貴様、誰か四、五人連れてな」
「名案々々」
猫侍も小手を打っている。
「あい、ようがす。ちょうど部屋に場ができて、けち[#「けち」に傍点]なのが集まっていますから、加勢を頼んで、これからすぐに追っかけましょう」
「頼むぞ」
「なあに殿様、一本路に女の足だ。世話あござんせん」
いうまも丹三、どどどどうん、と階下へおりて、ぱっと外へ出るが早いか、仲間を呼びに、庭木のむこうに灯《ひ》のもれている部屋へ走った。
雲の底には月があると見えて、うっすらとした光が一面にこぼれてはいるが、それとても足もとを見定めるたしにはならない。
何度かつまずいてのめりながら、ちらちら[#「ちらちら」に傍点]とうしろを振り返って、女は泳ぐように道を急いだ。
追っ手らしい影も見えない。
往っても行っても果てしのない屋敷町。
大きな家が黙々として両側に眠って、塀内の杉の巨木が笑うようにざわめく。
夜空の一角がほのかに赤いのは下町の灯。
すると、ここもお江戸のどこかだろう。
ほつれた鬢《びん》の毛を口にくわえて、女は長い坂を下った。
曲がり角。
遅じまいの一軒の小店、お内儀らしいのが大戸を閉《た》てている。
それへ女が声をかけた。
「今晩は、ちょっと伺いますが、あの、あたし、すっかり道に迷ってしまって、ここはどこでござんしょうねえ?」
内儀はうさん臭そうに、女をすかし見て黙っている。
女は懸命。
「これから本所へ行きたいんですけれど――」
「本所ならお前さん、こんなほうへ来ちゃあ大変なまわりですよ」内儀が口を開いた。「ここは――」
といいかけたが、とたんに、何を見たか、内儀は驚きあわてて、店へ飛び込んで、ぴたり戸をおろしてしまった。
あれ!
振り向くと、今来た坂を、黒い人影がばらばらばら[#「ばらばらばら」に傍点]と駈けおりて来る。
追っ手だ!
剣光影裡春雨冷
しとしと[#「しとしと」に傍点]と春の夜の小雨が煙っている。
ほどよく水を含んだ土は、足駄《あしだ》の歯にこころよい。
歩きたい晩である。
割り下水の方来居、相良玄鶯院の宅をあとにした篁守人は、愛刀帰雁を落とし差しに、片手に傘《かさ》を傾けて、暗い裏町づたいに大川の縁へ出た。
埋堀《うめぼり》のあたりらしい。
杭《くい》を洗って流れる黒い水が、ざぶうり、ざぶり――音を立てている。
対岸はお米蔵、屏風《びょうぶ》を立てならべたような甍《いらか》が起伏しているなかに、火見櫓《ひのみやぐら》などが空明りに浮いて見える。
墨絵にはなろうが、淡いさびしさだ。
そのさびしさはやがてはっきりした形をとって、追っても払っても若い守人の胸をむしばむ。
雲のようにむらがり起こる恋情を、守人はどうすることもできないのだ。
思う女《ひと》に思われる身は楽しいはず。現世にこれ以上の幸福はないかもしれない。
しかし、それは、思ってもいい女を思い、思われていい女に思われる場合に限る。思われてならない女に思われ、思ってならない女を思う守人の恋、そこに名刀帰雁でさえ断ち切れない哀愁と苦悩がある。思い思われていればそれでよいではないか、と考えてもみるが、こんなあきらめが何になろう。身と心を一筋に向けるのが恋の情感だ。
では、この胸の疾風《はやて》に乗って、女のもとに走り、自分を待ちわびているからだを抱いて、心ゆくまで泣こうか。女と二人で泣こうか――。
なんの五千石、君と寝よ。
恋はすべてである。
この水底に大小を沈めて、丸腰の気もすっぱり[#「すっぱり」に傍点]と、前掛けでも締めて世を渡ろうか。
川風が雨を吹き込む。
守人は身震いをして、悪夢からさめたように慨然と襟《えり》を正した。
天下の安危、静かなること林のごときあいだにも機をねらって東西に奔馳《ほんち》しつつある同志の誓言、これらのことが守人の頭脳《あたま》にひらめくと同時に、たった今までの思慕の感傷を、われから蹴散らすような足取りで、かれは川に沿うて歩き出した。
たとえ瞬間にしろ、あんな妄念にこころをゆだねるとは、俺は何たる見下げ果てた男であろう。ことに自分には、墓へはいる前に、必ず一度はこの帰雁に血を塗らなければならない仇敵《きゅうてき》があるではないか。先哲の書、父や恩師の教えを、俺はいったいどこへきいて来たのだ。
こうして自らをしかっているうちにも、嵐《あらし》に似た恋ごころは守人の心身をかきむしる。
この雨の夜を、あれは今ごろ、どこに何をしているだろう――。
眼をあいたままうなされているのが今の守人だ。
駒留橋《こまどめばし》から両国。
お江戸名所九十六間の板張りが、細かい飛沫《しぶき》に白じらと光っている。
渡れば広小路。
番所を右に、風流柳橋の紅燈。
春宵《しゅんしょう》一刻|価《あたい》千金、ここばかりは時を得《え》顔《がお》[#「顔《がお》」は底本では「顔《がほ》」]の絃歌《げんか》にさざめいている。
が、守人の胸中は外部の闇黒よりも濃い。
どこまで行くつもりか、傘を持ちかえて、平右衛門河岸《へいえもんがし》の通りへかかった。
このときだ。
一つのがんどう[#「がんどう」に傍点]提灯と、それを取り巻いて七、八人の影とが、あとになり前になり、音を忍んで守人のみちにからみ出した。
守人は気がつかない。興の趣くままに、彼はふ[#「ふ」に傍点]と高らかに吟じた。
「今日危途春雨冷やかなり――」
すると、すぐうしろに太い声がして、
「檻車揺夢度函関《かんしゃゆめうごかしてかんかんをわたる》」
と、すばやく次の句をつけた者がある。
驚いて振り返ると、他の影はさっと左右の軒下に分かれて、頭巾《ずきん》の中からほほえみかけて立っている大男の侍一人。
黒ずくめにがんどう[#「がんどう」に傍点]提燈、あまり安心のゆける装束ではない、それが軽く頭を下げて、
「はからずも愛吟の詩を耳にして、つい口に出ました。無礼の段平に御容赦を」
いいながら寄り添う。
「どうつかまつりまして、うろ覚えの一節、拙者こそお恥ずかしく存じます」
辞儀を返して、守人は歩き出した。
ところが侍、なれなれしくならんで来る。
「このごろ物騒な夜道を、貴殿これからいずくへおいででござる」
自分こそ物騒だ。大きにお世話、と守人が黙っていると、
「ははははは、この刻限にこの道、これはいかさま野暮なことをおきき申した。雨の夜の北廓《ほっかく》もまれには妙でござろう。下世話《げせわ》にも気散じとか申してな、武骨ながら拙者もお供つかまつろう」
守人にしては迷惑しごくな話、べつにどこといって目的のあるわけでもないが、大門をくぐろうとは思っていない。で、すぱりといってやった。
「拙者は吉原へ参る者ではござらぬ。どうかかまわずお先へ」
「いやなに、情夫《まぶ》は引け過ぎと申すで、そう急ぐこともござらぬ、はっはっは」と相手は少しも動じない。「それとも、惚れて通うに田舎武士《いなかざむらい》は邪魔だといわるるか」
へんにもつれてくる。
喧嘩《けんか》を売る気。うるさい奴につかまったな、と守人は眉をひそめた。黒い影が三々五々、すこし遅れて左右からつけて行く。
黒頭巾がひとりでしゃべりつづける。
「先刻の詩、惜しい先生が揚げられたものでござるな。拙者ごときも痛憤に耐えぬ一人じゃ」
彼がここで惜しい先
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