人がなおもしきりに話し合っている。
 ことばづかいから察して、どうやらお武家の主従らしいが、これはとんだことになったもの。うっかり出ちゃあどんな眼にあうかしれやしない――といってから、息苦しくてはもう一刻も我慢がならない。いっそ声を立てようか。いや待て待て。が、それはそうと、どうしてあたしをこんなところへ置いてけぼりにしたんだろう?
 ことによると津賀閑山に、うまうま一杯食わされて――。
 そういえば、湯灌場買いだけあって、爺《じじ》いめ食えない面をしていたよ。
 そんなこと、今となってはいくら悔んでも追っつかない。ああ、あたしどうしよう。
 ほんとにどうしよう。どうしたらいいだろう――
 すると、まるでこの女の心に答えるように、
「な、何だか知らぬが、か、閑山から、かような物を受け取る筋はないぞ」
 と言う声。
「しかし、遅くなってあいすみませぬと、使いの者が立派に口上まで述べて帰りました」
「こ、こ、この家へ来たのか」
「察するところ、これもまた例の門亡者《かどもうじゃ》にござりましょうか」
「うむ、亡者かな」
 門亡者? 門亡者とは何だろう――地獄とやらへでもおちたのかしら、中の女は気が気でない。
 突然、主人らしい吃りのほうが笑い出した。
「ははははは、うむ。裏面《うらおもて》の家を違えて、ま、ま、迷い込んだというわけじゃな。か、かまわぬ。ここ、これ、あけてみい」
「は」
 いよいよ来た! もうだめ。あけられたら百年目。どういう連中か知れたものではない。何といってのがれようと、女は内部であせったが、さて、こうなってはどうすることもできない。もはや手が鎧櫃へかかったらしい。
 とうとうこいつらの手に落ちるのか。
 近々と力を入れる呼吸《いき》づかいが荒い。
「なかなか固うござります――厳重――念入りに――いや、からげたわ、からげたわ」
 いうまもぱらり、ぱらりと締め緒の解ける音。
 これが運命!
 死んだ気。
 いも虫じゃあないけれど、丸くなってじっ[#「じっ」に傍点]としているに限る。しかし、乙に変なまねでもしかけたら何としよう!
 それにこのお金!
 と、女が内懐《うちぶところ》を押えた刹那《せつな》、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と頭上の覆《ふた》があいて、外部の冷気とともに黄色の光線《ひかり》の帯が、風のように流れ込んだ。
 手燭を持ち添えた大きな顔が二つ、凹凸《おうとつ》をくっきり[#「くっきり」に傍点]とくま取らせて、赤鬼のようにのぞいている。
 女は観念の眼を閉じた。

   こんなところに長居はごめん

「おう! な、何じゃこれは※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「――女子《おなご》? ではござりませぬかな」
「ややっ! ど、どれどれ、ううむ、いかにも女子じゃ。まさしくこれは女の死骸《しがい》と見える。かか、閑山め、な、なかなか味をやりおるわい。手を貸せ」
「は。なれど万一《もし》生きておりますると、お顔をさらすは不得策かと存じます。まずこの頭巾《ずきん》にてお包みなされて」
「なに。と、灯《とも》しを消せばよいではないか」
 ふっ[#「ふっ」に傍点]と吹く音、蝋《ろう》のにおいが闇黒《やみ》に漂う。
 四つの手が肩と腰を抱いて、女を櫃から取り出した。
 おろされたところは、しっとりとした冷やかさ、案の条、畳の上である。
 が、一色に深い闇黒があたりをこめて、からだ中の神経を眼と耳に集めても、女には何も見えないし、聞こえない。ただときどき家を鳴らして渡る小夜嵐《さよあらし》が、遠くの潮騒《しおざい》のように余韻を引いて過ぎるばかり。
 動いてはならぬ。
 この一事を、呪文《じゅもん》を唱えるように、心中自分にいい聞かせてしめっぽい畳表に頬を押しつけながら、まこと死んだつもりで横ちょに倒れている女。暗いからいいようなものの、さすがにそこは婦人、今にも手をやって着物のくずれだけは直したいが――。
 動いてはならぬ。
 動いてほならぬ。
 頭をはさんで、長短二つの人影が立っている。
 やがて、一つの影が、二つ折れにしゃがんで膝を突いた。人の香がむっ[#「むっ」に傍点]と女の鼻をくすぐる。
 他の影は、棒立ちのまま足先で女の背中を押している。
「こ、こりゃ女の仏じゃな。はっはっは、し、し、し、信女《しんにょ》じゃ。か、門亡者にはうってつけじゃて」
 動いてはならぬ。
 動いてはならぬ。
 背筋の足がだんだん脇腹へ移って、しまいには所きらわずからだじゅうを押してまわる。その太い爪先がむさぼるように肉へ突き入るたびに、女は思わず歯を食いしばって、ぎりぎり――ともすれば音を立てそう。
「ふふふ、ええ肉置《ししお》きじゃ」
 とまたしても踏んでみながら、独語《ひとりごと》のつぶやき。
「と、年がいもない閑山、あったら逸物を、なな、何としおった。つ、罪作りな奴め!」
 動いてはならぬ。
 声を出してはならぬ。こう念じて、いっしょうけんめいにじっとしていると、侍の足がすうっ[#「すうっ」に傍点]と上へ伸びて来て、腹から胸へかかった。女ははっとした。
 そこへ当たれば小判の音がする。
 南無三《なむさん》! と覚悟を決めたとき、足は、懐中《ふところ》の小判を越えて、はうように咽喉《のど》から顎《あご》へ――。
「しばらく、御前、しばらくお待ちを」しゃがんでいる侍が制した。
「ううむ。いや、これは美形、世にも珍しき美女にござりまする」
「な、な、何じゃ。美しいとな!」
 きき返した主人の驚きを無視して、侍が暗黒を透かして女の顔に瞳を凝らしているぐあい、感に打たれたといった態《てい》だ。
「く、暗がりで物の見えるそちの申することじゃから、こ、こりゃ間違いはなかろう」
「は。提灯なしに、手前は[#「手前は」は底本では「打前は」]夜道で針が拾えまする。十本が十本まで」
 くだらないことを自慢しているようだが、ほんととすれば猫みたいな侍、猫侍これだけはちょっと真似人《まねて》があるまい。
「その手前、こうつくづくと観じまするところ、御前、この者は江戸広しといえども、まず比類なき美人にござりましょうな」
「ほほう」
 猫侍と主人、長ながと足もとに横たわる女の黒い影を見下ろしていい合わしたように黙り込んだ。
 しかし、立ち去りはしない。だから女も、指一つ曲げるわけにはゆかないのだ。
 動いてはならぬ。動いてはならぬ――。
 ここは二階らしい。
 樹々《きぎ》の梢《こずえ》に風が吹くのが、同じ高さに聞こえる。
 夜もふけたよう――めいるような陰気さが、御府内とは思われない。
 ほほっ、ほっ。どこかで梟《ふくろう》がないている。
 お江戸ではないのかしら?
 そうだ、ここはきっと江戸ではないのだ。鎧櫃の中で自分が気を失っているあいだに、車がお江戸を出はずれて、こんなところへ来たのかもしれない。そういえば、何刻《なんどき》、あるいは幾日気絶していたものか。あたしにはてんで[#「てんで」に傍点]時の覚えというのがないのだから。
 そうだよ。ほんとにここは、もう富士の見えない国かもしれない。
 何の因果でこんな遠方へ来たんだろうねえ。
 雨! と女は、場合を忘れて、危うく顔を上げようとした。
 おっと!
 動いてはならぬ。
 動いてはならぬ。
 雨ではない。縁とおぼしき一方の締め切った板戸を、立ち木の枝がなでているのだ。
 古沼にでも近いか、織るような蛙《かわず》の声。
 いよいよもってお江戸を離れている。本所の割り下水と今の自分とのあいだには、何十里、何百里の山河があるのだ、と思うと、女の眼頭が自然《ひとりで》に熱くなって、どうすることもできない涙が一筋、ほろりと畳をぬらした。
 はだけた襟もとや四肢《てあし》には、春とはいえ、深夜の空気はあまりにも寒々しい。
 が、動いてはならぬ。
 動いてはならぬ。
 たとえこのまま死んでも、このお武家たちに生きているからだをさとらせてはならない。
 それまで妙に考え込んでいた吃りの主人と猫侍、女の身柄を[#「身柄を」は底本では「 柄を」]中に、どっちからともなくぽつりぽつりと話し出した。
「わ、わしに、こ、このような進物をするとは、つ、津賀閑山の気が知れぬ」
「もとより進物ではございますまい。やはりその、屋敷を取り違えて届けられた門亡者と存じまする」
「が、門亡者にしたところで、わしのもとへ送ろうとしたものではないか」
「なるほど。では、当初《はじめ》から何かの行きちがいでござりましょうな」
「こ、これをひいて参った下郎は、ほほ他に何か積んでおったか」
「その儀、手前いっこうに存じませぬ。ただ手前が門内へはいりましたゆえ、そっと玄関に出ておりますとわれんばかりに戸をたたきますので、こう内からあけてみましたところ――」
「うむ」
「せっせ[#「せっせ」に傍点]と鎧櫃をおろして、閑山から参りました。お受け取りください、とがなりおりますから、さようか、御苦労と手前が出ましてな、その者と二人でかつぎ入れましたうえ、時分を見て御前にお越しを願った次第、腑に落ちぬと申せば、第一にあの下郎が不審でござります」
「わしが参ったときは、そ、そちはこれを二階へ引き上げおった。それはよいが、か、閑山の下僕、と、戸を乱打致してがなり立てたと?」
「は。いささか酒気を帯びておりましたようす」
「なんじゃ。く、くく、食《くら》いよったか。はははは、そ、それで解《げ》せたぞ」
「と申しますと?」
「し、知れたこと、その者の間違いじゃ」
 その者のまちがい?
 というと、車をひいて来た閑山の飯たきが、誤って自分をここへ送り込んだのか。
 さては閑山爺さんは恨む筋ではなかったとみえる。また、その閑山の知り人でこうして、自分を持てあましているこの方々も存外|狼《おおかみ》ではないかもしれない。が、それというのも、自分をすっかり死人と思い込んでいればこそで、ま、も少しじっ[#「じっ」に傍点]としてなりゆきを見るのが、このさい、何よりも利口なやり口。
 動いてはならぬ。
 動いてはならぬ。
 主従、とぎれたことばを続けている。
「御前、この女は何者でござりましょう?」
「かか、閑山が殺したのじゃ」
「閑山が――?」
「こ、殺したのじゃ。殺して、よ、鎧櫃へ詰めて、いずくへか取りすてようと致したものであろう。し、仔細《しさい》はわからぬ」
「しかし御前――」
「とまず、申して、こ、これを種《たね》に閑山をゆするのじゃ」
 この侍、一枚上をいっているよ、と女が感心していると、鞘《さや》走りの音がして、侍の手にぎらり[#「ぎらり」に傍点]と長刀が光った。
「死肉じゃが、久しぶりにためし斬り――」
 これはたまらない。思い切って飛び起きようか。
 なにさ、この辛棒《しんぼう》が肝心《かんじん》!
 動いてはならぬ。
 声を立ててはならぬ。
 すると、猫侍が吃りの刀を押しとどめて、ぴったり据わっている女の額部《ひたい》に手を当てた。
 どきりとした女、胸の早鐘に合わせて、自分と自分へ一心に念じる。
 動いてはならぬ。
 動いてはならぬ。
 と、その胸に、猫侍の耳がくっついて、じいと感[#「感」はママ]をきいている。
 動いてはならぬ。
 動いては――。
「御前」
「な、何じゃ」
「この女、生きておりまする」
 はっとした瞬間。
「死美人生けるがごとしか。どけ」
 と猫侍を押しやった主人の足、またどっかり[#「どっかり」に傍点]と今度は女の顔の真ん中を踏まえた。
 眼と鼻と口をふさいで、大きな素足が載っている。
 あまりといえばあまりな!
 女の全身に持って生まれた血がおどった。が、ここが我慢! 苦しいだろうがこらえておくれ! と必死に呼吸《いき》を詰めて、断末魔のような無言の叫びが身内に渦まく。
 動いてはならぬ。
 息をしてはならぬ!
 足の重みが増してくる。
 息をしては――息をしては――動い――足が――足――押す――息――。
 あっ!
 と思った刹那《せつな》、咽喉《のど》の奥でぐう[#「ぐう」に傍点]というような音がして、侍の足の裏がす
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