つづれ烏羽玉
林不忘
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《テキスト中に現れる記号について》
《》:ルビ
(例)花吹雪《はなふぶき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)浅草三社|権現《ごんげん》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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花吹雪《はなふぶき》
どこかで見たような顔だね
花を咲かすのが雨なら散らすのも雨。
隅田川《すみだがわ》木母寺《もくぼじ》梅若塚《うめわかづか》の大念仏は十五日で、この日はきまって雨が降る。いわゆる梅若の涙雨だが、それが三日も続いた末、忘れたようにからり[#「からり」に傍点]とあがった今日の十八日は、浅草三社|権現《ごんげん》のお祭、明日が蓑市《みのいち》、水茶屋の書き入れどきである。
阪東《ばんどう》第十三番目の聖観世音。
今も昔もかわらないのが浅草のにぎわいだ。軒堤燈《のきぢょうちん》がすう[#「すう」に傍点]っとならんで、つくり桜花《ばな》や風鈴、さっき出た花車《だし》はもう駒形《こまがた》あたりを押していよう。木履《ぽっくり》の音、物売りの声、たいした人出だ。
「おい、姐《ねえ》さん」
と呼びかけられて、本堂うら勅使の松の下で立ちどまった女がある。うらうら[#「うらうら」に傍点]と燃える陽炎《かげろう》を背に、無造作な櫛巻《くしま》き、小弁慶《こべんけい》の袷《あわせ》に幅の狭い繻子《しゅす》と博多《はかた》の腹合わせ帯を締めて、首と胸だけをこう背《うしろ》へ振り向けたところ、
「おや! あたしかしら?」
という恰好《かっこう》。年のころは廿と四、五、それとも七、八か。
「おうっ、嬉《うれ》し野《の》のおきんじゃあねえか。いやに早《はえ》え足だぜ。待ちねえってことよ」
紺《こん》看板に梵天帯《ぼんてんおび》、真鍮《しんちゅう》巻きの木刀を差した仲間奴《ちゅうげんやっこ》、お供先からぐれ[#「ぐれ」に傍点]出して抜け遊びとでも洒落《しゃれ》たらしいのが、人浪《ひとなみ》を分けて追いついた。
「あんなに呼ぶのに聞こえねえふりしてじゃらじゃら[#「じゃらじゃら」に傍点]先へ行きなさる。お前も薄情な罪つくりだな」女はすこしきっとなった。
「あの、お呼びなすったのは、あたしでございますか」
「いまお前が随身門をくぐったときから、おいらあ跡をお慕《して》え申して来たんだ。はははは、いつもながらお前の美しさは見たばかりで胆魂《きもたましい》もぶっつぶれるわ。どうぞなびいてやりてえものだが――おいどうしたえ、いやにすましているじゃあねえか」
女はちら[#「ちら」に傍点]と眼を動かした。護摩堂《ごまどう》から笠神明《かさしんめい》へかけて、二十軒建ちならぶ江戸名物お福の茶屋、葦簾《よしず》掛けの一つに、うれし野と染め抜いた小旗が微風《そよかぜ》にはた[#「はた」に傍点]めいているのが、雑沓《ざっとう》の頭越しに見える。
女はにっこりした。男はぴったり[#「ぴったり」に傍点]と寄りそって、
「なあ、おきんさんがおいらを見忘れるわけはあるめえ。何とかいいねえな」
「でも――」
「なに?」
「いやだよ、この人は!」がらり、女の調子が変わった。月の眉《まゆ》がきりり[#「きりり」に傍点]と寄ると、小気味のいい巽《たつみ》上がりだ。
「何だい。人だかりがするじゃないか。借金《かり》でもあるようでみっともないったらありゃあしない。お離しよ」
とん[#「とん」に傍点]と一つ、文字どおりの肘鉄《ひじてつ》をくわせておいて、女はすたすた歩き出した。
水茶屋嬉し野の釜《かま》前へ?
そうではない。もと来た道へ帰ると、お水屋額堂を横に見て仁王門、仲見世《なかみせ》の押すな押すなを右に左に人をよけて、雷門《かみなりもん》からそのまま並木の通りへ出た。
青い芽をふくらませた辻の柳の下を桃割れの娘が朱塗りの膳を捧げて行く。あとから紅殻格子《べにがらごうし》が威勢よくあくと、吉原《よしわら》かぶりがとび出して来る。どうもえらいさわぎだ。
「どこかで見たような顔だねえ」
人ごみのあいだを縫いながら、女はふ[#「ふ」に傍点]とこう思って、うしろを振り返った。のっそり、のっそりと、さっきの奴姿がついて来る。四、五間うしろにその赫《あか》い平べったい、顔を見いだしたとき、女は、
「まあ、いけ好かない野郎だよ。酔っているんじゃないかしら」
とかすかにくちびるを動かしたが、また小走りに急ぎ出す。男も、にやりと笑《え》みをもらして、尻《しり》っぱしょりをぐいと引き揚げると、今度はおおびらに跡を追いはじめた。
広小路《ひろこうじ》を田原町《たわらまち》へ出て蛇骨《じゃこつ》長屋。
角に四つ手がおりて客を待っている。
「駕籠《かご》へ、駕籠へ。ええ旦那《だんな》、駕籠へ」
「ちょいと駕籠屋さん」女が駈け寄った。「神楽坂上《かぐらざかうえ》の御箪笥町《おたんすまち》までやっておくれ。あの、ほら、南蔵院《なんぞういん》さまの前だよ。長丁場で気《き》の毒《どく》だけれども南鐐《なんりょう》でいいかえ」
「二|朱《しゅ》か。可哀そうだな。一|分《ぶ》はずんでおくんなせえ。なあおい勘太《かんた》」
「そうよ、そうよ――しかし兄貴、いい女だなあ!」
「よけいなことをおいいでないよ。じゃ酒代《さかて》ぐるみ一分上げるから急いでおくれ」
「あいきた。話あ早えや。ささ乗んなせえ――よしか勘太、いくぜ」
つうい[#「つうい」に傍点]と駕籠の底が地面を離れると、た、た、たと二、三歩足をそろえておいて左足からだく[#「だく」に傍点]をくれる。あとは肩口のはずみ一つだ。
右へ折れて御門跡前《ごもんぜきまえ》。
ほうっ、ほっ。
えっさ、えっさ。
えっさっさ。
息杖《いきづえ》がおどる。掛け声は勇む。往来の人はうしろへ、うしろへと流れてゆく。
家なみの庇《ひさし》や紺暖簾《こんのれん》に飛びちがえる燕《つば》くろの腹が、花ぐもりの空から落ちる九つどきの陽《ひ》ざしを切って、白く飜えるのを夢みるような眼で、女は下からながめて行った。これも祭の景物であろう。やぐら太鼓の音が遠くにひびいている。
「えい、はあ!」
腰をひねって、駕籠は角を曲がる。
新寺町《しんてらまち》の大通りだ。
油を浮かべたような菊屋橋《きくやばし》の堀割りへ差しかかったとき、女は駕籠の垂《た》れを上げて背後《うしろ》を見た。と、あの執念深い折助《おりすけ》が、木刀を前半に押えて、とっと[#「とっと」に傍点]と駈けてくる。気のせいか、真っ赤な顔が意地悪く笑っているようだ。
「ほんとにどこかで見たような顔だよ」
つぶやいたとたん、女は何事か思い当たったとみえる。さっ[#「さっ」に傍点]と頬《ほお》から血の気が引いた。そして、ほとんど叫ぶように、甲《かん》高い声を前棒《さきぼう》の背へ浴びせた。
「駕籠屋さん、一両だよ。もちっと飛ばせないかねえ。じれったいじゃないか」
湯灌場買《ゆかんばか》い津賀閑山《つがかんざん》
紺絣《こんがすり》の前掛けさえ締めれば、どこから見ても茶くみ女としか踏めない客だし、それに何かいわくありげなようすだが、そんなことはどうでもいい、一両と聞いて駕籠屋は死に身だ。
刺青《ほりもの》の膚に滝《たき》なす汗を振りとばして、車坂《くるまざか》を山下《やました》へぶっつけ御成《おなり》街道から[#「街道から」は底本では「街頭から」]筋かえ御門へ抜けて八|辻《つじ》の原《はら》。
右手、柳原《やなぎはら》の土手にそうて、供ぞろい美々しくお大名の行列が練って来る。
挟箱《はさみばこ》、鳥毛の槍《やり》、武鑑を繰るまでもなく、丸鍔《まるつば》の定紋で青山因幡守様《あおやまいなばのかみさま》と知れる。
「したあに下に、下におろうっ――」
駕籠はひたひた[#「ひたひた」に傍点]とこれに押されて、連雀町《れんじゃくちょう》の横丁へ逃げこんだ。このとき、太田姫稲荷《おおたひめいなり》の上から淡路坂《あわじざか》をおりてくる大八車が二、三台つづいた。大荷を積んで牛にひかせているから、歩みがのろい。
一時、あたりは行列で混乱し、今来た道は荷車でとだえた。駕籠屋は駕籠を下ろして往来の人といっしょに、大通りを往《ゆ》く行列を見物していた。ほんの一瞬間、が、人の気はむこうへ取られて、駕籠はちょっと物かげになった。
と見るや、すばやく履物《はきもの》をそろえて、女はすこしも取り乱さずに、するり[#「するり」に傍点]と駕籠を抜け出ると、べつに跫《あし》音を盗むでもなく、鷹揚《おおよう》に眼の前の一軒の店へはいって行った。
ほの暗い古道具屋の土間。
「いらっしゃいませ」
茶筌《ちゃせん》頭の五十|爺《おやじ》、真鍮縁の丸眼鏡《まるめがね》を額部《ひたい》へ掛けているのを忘れてあわててそこらをなでまわす。
「あの、しばらく」
とそれを制した女、にっと白い歯を見せたかと思うと、表からは見えない戸の内側へ、ぴったり蝙蝠《こうもり》のようにはりついた。
老爺《おやじ》はあっけにとられている。
まず大八が通り過ぎた。
すると、例の悪しつこい仲間奴《ちゅうげんやっこ》が、遠くに駕籠をにらんで立っている。駕籠は駕籠だが、これはもう藻抜けのかご[#「かご」に傍点]だ。しかし、奥山からここまで女をつけて来るなんて、いったいこの男は何者だろう?
そういえば、かくまで男の手からのがれようとする女も――?
嬉し野のおきんも眉唾者《まゆつばもの》だが、奴もただの奴ではあるまい。
狐《きつね》と狸《たぬき》。お化けにお化け。当たらなくても遠くはなかろう。
女がそこの古道具屋へはいったことは、誰も知らない。ほど近いお上屋敷へ青山|因幡《いなば》の殿《しんがり》が繰り込んでしまうと、知らぬが仏でいい気なもの、
「姐さん、お待ち遠さま――さあ、やるべえ」
「どっこいしょっ、と」
二人の駕籠屋、声をそろえて肩を入れた。重いつもりで力んで上げたのが、空《から》だから拍子が抜けて、ふらふら[#「ふらふら」に傍点]と宙に泳ぐ、。
「おっとっとっと!」
踏みしめたが遅かった。
「わあっ!」
と駕籠をほうり出して、
「兄い、こりゃどうだ!」
「やっ! 消えてなくなるわけはあるめえ。ちっ、まんまと抜けられたのよ」
「確かに足はあったな。幽霊じゃあなかったな」
「おきやがれ、面白くもねえ」
「どろん[#「どろん」に傍点]と一つ、用いやがったかな」
「伊賀流の忍術じゃあるめえし」
「まだ遠くへは突っ走るめえぜ。おらあ追っかけて――」
「よせよせ、手前なんかに歯の立つ姐御《あねご》じゃねえ。器用な仕事に免じて、こちとら旗あ巻くのが上分別よ」
「駕籠屋さん一両だよ、ってやがらあ! あの声が耳を離れねえ」
「ぐちるなってことよ」
「しかし、兄貴の前だが、水っぽい女だったなあ。むっちり[#「むっちり」に傍点]した膝《ひざ》をそろえて、こう揺れてたのが眼を離れねえ」
「いろんな物が離れねえな」
「畜生っ! たた、たまらねえやっ」
「勘太っ! 妙な腰っ張りするねえ! 駕籠をかつげ、帰《けえ》るんだ」
わいわい[#「わいわい」に傍点]いっている。
これを見た古道具屋の主人《おやじ》、なんとかいってやりたいが、そこに女の眼が光っているからただもじもじ控えているばかり――。
仲間体《ちゅうげんてい》の男が駈けつけて来た。
駕籠屋から一伍一什《いちぶしじゅう》を聞くと、男はつかつか[#「つかつか」に傍点]と古道具屋の店頭《みせきき》へ進んで、
「ちょっと物を伺います」
ちゃんとした口調だ。
「はい、はい」
「お店へ水茶屋風の年増《としま》は来ませんでしたかね?」
爺さん、つい口ごもって戸の内側の女を見る。女の眼が恐ろしい無言のことばと、底に哀訴の色をひらめかしていた。
「いいえ」われ知らず、爺さんはうそぶいてしまっ
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