た。「どなたもお見えになりませんで。はい」
 ちょっと首をかしげたので、これあはいってくるかな。とひやり[#「ひやり」に傍点]とすると、男はそのまま立ち去った。
 駕籠屋はもう姿がない。
 ほっ[#「ほっ」に傍点]としたらしく、女はあでやかにほほえんだ。思わずつり込まれて、老爺も皺《しわ》だらけの顔をほころばせたほど、それは魅力に富んだ笑いであった。
「大丈夫?」
 立ったままで女がいった。娘にでも対するように、いかにも自然に、そしてきさく[#「きさく」に傍点]に、老爺は大きくうなずいてみせた。
 親船に乗った気でいるがいい――。
 こういいたかったのだ。実際、このへんてこな初対面の二人のあいだに、十年の知己のような許し合った心持ちが胸から胸へ流れたことは、不思議といえば不思議、当然《あたりまえ》といえば当然かもしれない。
 女は出て来て、薄暗いところを選んで上がり框《かまち》に腰をおろした。ちらり、ちらりと戸外《そと》を見ている。
 ほんのり上気した額に、おくれ毛がへばりついて、乱れた裾前《すそまえ》吐く息も熱そうだ。
「年増だって!」と嬌態《しな》をつくって、「年増じゃないわねえ」
 同意を求めるように見上げるまなざし、老爺は黙っていた。忘れていた女の香にむせて、口がきけなかったのである。
「お爺《とっ》つぁん、何ていうの、名は」
 女がきいていた。その声で、はっ[#「はっ」に傍点]として年寄りの威厳を取りもどした。
「どうしたんだ。今の騒ぎは」
 最初からこんなことばづかいが出ても、二人はすこしもおかしく感じないほど、父娘《おやこ》といっても似つかわしい。
「悪い奴に追っかけられたのさ」女はまだおどおど[#「おどおど」に傍点]していた。
「でも、お爺つぁんが助けてくれたから、もう安心だわねえ。たのもしいよ、ほほほほ、あんた何ていうの」
「わしの名か、津賀閑山《つがかんざん》」
「津賀閑山? 湯灌場《ゆかんば》買いね」
「口が悪いな」
「ほほほ、けどお手の筋でしょ?」
「まあ、そこいらかな」
「面黒いお爺さんだねえ。いっそ気に入ったわさ。惚《ほ》れさせてもらおうよ」
 閑山は出もしない、咳《せき》をして、吐月峰《はいふき》を手にした。
「いまお前さんを捜しに来た男は何だ」
「まあ可愛い! もう妬《や》いてるの?」
「いや、お前さんはあの男を知っているのかね?」
「お爺つぁんは?」
「知らいでか!」
「じゃあ、それでいいじゃないの」とほがらかに笑って女はいきなり閑山の背後を指さした。
「あれ売っておくれよ、あたしにさ」

   お釈迦《しやか》さまでも気がつくまい

 新仏《にいぼとけ》といっしょに檀家《だんか》から菩提寺《ぼだいじ》へ納めてくるいろいろの品物には、故人が生前|愛玩《あいがん》していたとか、理由《わけ》があって自家《うち》には置けないとか、とにかく、あまりありがたくない因縁ものがすくなくない。
 ところで、これを受け取った寺方では、何もかもそう残らず保存しておいたのでは、早い話がたちまち置き場にも困ることになるから、古いところから順に売り払って、これがお寺の所得になり寒夜の般若湯《はんにゃとう》に化けたり獣肉鍋《ももんじゃなべ》に早変わりしたりする。そこはよくしたもので、各寺々にはそれぞれ湯灌場買いという屑屋《くずや》と古道具屋を兼ねたような者が出入りをして、こういう払い物を安価《やす》く引き取る。
 商売往来にもない稼業だが、この湯灌場買いというものはたいそう利益のあった傍道《わきみち》で、寺のほうでは無代《ただ》でも持って行ってもらいたいくらいなんだから、いくらか置けばよろこんで下げてくれる。二両二分出した物が捨て売りにしても三十両、こういうばか儲けはざら[#「ざら」に傍点]にあったというから、こりゃお寺方の払い物を扱っちゃあ忘れられないわけだ。
 したがって、何でもその道にはいればむずかしい約束があるとおり、湯灌場買いにも縄張り付きの株があって、誰でもかけ出して取っつけるという筋あいのものではない。また、湯灌場物のなかから掘りだしをつかむには、それ相応の鑑識《め》が要《い》って、じっさい、湯灌場でうまい飯が食って行ければ、古手屋仲間ではまず押しも押されもしない巧者とされていた。
 江戸の東北、向島《むこうじま》浅草から谷中《やなか》根岸《ねぎし》へかけて寺が多い。その上どころの湯灌場買いを一手に引き受けて、ほっくりもうけているのが神田|連雀町《れんじゃくちょう》のお古屋津賀閑山。由緒《よし》ある者の果てであろうことは、刀剣類に眼が肥えているのでも知れるし、茶筌髪《ちゃせんがみ》のせいか、槍はさびても名はさびぬ、そういったような風格が閑山のどこかに漂っている。めっきり小金をため込んで、なかなか福々しい老爺っぷりだ。
 独身《ひとりみ》の女ぎらい、なんかと納まってみたところで、今こうして女の白い顔をながめて眼尻に皺を寄せているところ、おやじまんざらでもないらしい。
 湯灌場物が主だが、場所柄お顧客《とくい》にはお屋敷が多いから、主人《あるじ》の好みも見せて、店にはかなり古雅なものがならべてある。刀、小道具、脇息《きょうそく》、仏壇、おのおのに風流顔だ。
 正面、奥とのさかいに銀いぶし六枚折りの大屏風《おおびょうぶ》、前に花梨《かりん》の台、上に鎧櫃《よろいびつ》が飾ってある。黒革《くろかわ》張りに錠前《じょうまえ》角当ての金具が光って、定紋のあったとおぼしき皮の表衣《おもて》はけずってあるが、まず千石どころのお家重代のものであろう。女はこれへ眼をつけた。
「ねえ、あの鎧櫃を売っておくれよ」
 こう甘えるように身をくねらせて、畳の上へ乗り出して来る。閑山は笑った。
「うん。売ってやろう。が、何にしなさる?」
 当惑の色が女の顔に動いた。それはまたたくまに笑い消して、鈴をころがすように屈托《くったく》なげな高調子。
「ほほほほほほ、いいじゃあないの。売り物を買おうというのにそんな詮議《せんぎ》だてはいらぬお世話さ」
「ははは、おおきに――」
「けれども、お爺《とっ》つぁんだから話して上げよう」と女はちょっと真顔になって、「あたしゃもう何もかもいやになった。いっそあの中へはいってどこかへ行ってしまいたいのさ」
 閑山老は眼をぱちくり。
 ――これは、ことによるとき[#「き」に傍点]印《じる》しかな?
 だが、そうも見えないぞ――。
 とっさに思案がつかずにいると、女は妙にしんみりして来て、
「ねえお爺つぁん、世の中なんて変なものさね。こっちで死ぬほど思っている人は鼻汁《はな》もひっかけてくれないし、いやでいやでたまらない奴は振っても巻いてもついて来やあがるし、うっかりそれを義理人情のしがらみに取っ付かれるはめになりゃあしまいかと思うと、そいつの執心よりはあたしゃ、このこころがこわいのさ、どうしてくらすも一生なら、ねえお爺つぁん、山王のお猿さんじゃないけれど、なんにも見ず聞かずいわずに過ごせないものかねえ、なんかとならべたくもなろうじゃないか」
 何かしら迫って来る力に閑山はいつしかひき入れられていた。
「色界無色界というてな、到《いた》るに難《かた》しかの」
 湯灌場買いらしい、こんな抹香《まっこう》臭いあいづちを打ったりした。そして、思い出したように、
「あんたはどこのお人かな? 失礼だが、素人《しろうと》衆とは見えんようだが」
 女はやにわに突っ立った。
「そうかしらねえ、ほほほほほ」
 別人のようにいきいきしだして、ちら[#「ちら」に傍点]と戸外へ眼をやってから、
「さ、あたしもこうしちゃいられないよ。あの鎧櫃はいくらなのさ」
 八両、と閑山が吹っ掛けると、女はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と前へこごんで、すごいほど透んだ低声《こごえ》で、
「お爺つぁん、黙ってあたしのいうとおりにしておくれ。いいかい。鎧櫃をここへおろして、あたしを入れてふたをおし」
 こいつあいよいよ桁《けた》がはずれているわい――逆らわぬに限ると閑山、鎧櫃を戸外《そと》から見えない土間の隅《すみ》へすえた。そうしておいて、試みに代金を請求してみると、今上げるからちょっと場をはずしてくれという女の註文《ちゅうもん》。
 閑山は奥へはいって行った、と見せかけて、屏風《びょうぶ》のかげから女をうかがっている。
 知るや知らずや、壁のほうを向いた女、手早く袷のまえをひろげて、帯の下、お腹のあたりを探りはじめる――。
 ちょうどその前面《まえ》に、大鏡が立て掛けてあるからたまらない。閑山老人、見てはならないところをことごとく見てしまった。そそくさと眼鏡を直して、鏡の中の白いまどらかな線に、からだじゅうの神経を吸い取られている閑山、いい図ではないが、本人は魂ここにあらずだ。
 やがてのことに女は、肌膚《はだ》に着けた絎紐《くけひも》をほどくと、燃えるような真紅の扱帯《しごき》が袋に縫ってあって、蛇《へび》が蛙《かえる》を呑《の》んだように真ん中がふくれている。
 ざく、ざく、ざく、と山吹《やまぶき》色の音。
 豪気な額《たか》だ――金座方でもなければ手にすることもなさそうな鋳《ふ》きたての小判で、ざっと五百両!
「こ、この女が五百金! はてな」
 と小首をひねると、色から欲へ、閑山ずん[#「ずん」に傍点]と鞍《くら》がえをした。
 いるだけ抜いてもとのとおりにあとをしまい、衣紋《えもん》をつくろい終わって女が呼ぶ。
「佐渡の土さ。落とすとちりん[#「ちりん」に傍点]となくやつだよ」
 閑山はふらふら[#「ふらふら」に傍点]として現われた。
 白痴《ばか》か茶番か、女は自分で今買い取った鎧櫃の覆《ふた》をあけて、裾を押えてはいり込もうとしている。
 ほんとにこの中へこもる気!
 閑山は真剣にまごつき出した。と、思い当たったのがさっき顔を見せた仲間奴のこと。
 識《し》っている! あの男なら記憶《おぼえ》がある。
 なぜ早くここへ気がつかなかったろう?
 この女は捕吏《とりて》に追われているのだ!
「そうだっ」
 とこの考えがぴいん[#「ぴいん」に傍点]と頭へ来ると同時に、別のたくらみが白雨雲《ゆうだちぐも》のように閑山の胸にわく。
 このからだとこの金、これだけの代物《しろもの》と五百両、誰に渡してなろうか――。
「お爺つぁん、覆《ふた》しておくれよ」
 女の声で閑山はわれに返った。
「よし。が、どこへ届けてやろう?」
「どこでもいいよ。どこか遠くへ持ってっておくれ」
「遠くへ?」
「ああ、面白いところへさ」
「ふうむ」
「あれさ、冗談だよ。本所《ほんじょ》石原新町《いしはらしんまち》の牛の御前のお旅所へ届けておくれな。これから行けば夜になるから、木立ちのかげへでもほうり出しさ。あたしゃあそこの割り下水に化けて出たい殿御があるの」
「承知した。うちの飯たきにひかせてやるのだから、怪しまれんように声を立てなさんな」
 女は櫃の中で膝を抱いた。
「伊達緒《だてお》だけ掛けたように見せて錠は下ろさないでおくれねえ。出られないと事だから」
「窮屈だろうが、すこしのしんぼうだ」
「おとっつぁん、お前のなさけは忘れないよ」
「なんの」
 ばたん、と覆をおろすと、にっ[#「にっ」に傍点]と笑った閑山、音のしないように伊達緒をぎりぎりに締めつけてそっと鍵《かぎ》をかけた。
 軽く外からたたいてみる。
「居心地は、どうだ?」
 というこころ、内部《なか》はいっぱいだから動けないし、何かいうのも聞こえない。
 しめしめ!
 すぐに向島の自分の寮へ運ばせておいて、あとから行ってしっぽり[#「しっぽり」に傍点]楽しんでやろう。さっき鏡で見た女の膚が、まざまざと閑山の眼へ返って来た。
 それに、あの五百両。
 あれも筋を洗えば、この女のことだ。案外話がわかるかもしれぬ。何しろ、可愛いのに痛い目を見せたくはないからな。しかし、出ようによっては――、
「久七《きゅうしち》、久七」
 閑山は声高《こわだか》にたった一人の下男を呼んだ。出て来た久七、酒好きだが愚鈍実直な男
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