、いい抜けはござんすまい」
「なんのことだ、それは」
白い顎《あご》を襟《えり》へうずめて、侍は上眼使いに媚《こ》びを送る。いやな野郎だな、と思うと、文次はかあっ[#「かあっ」に傍点]となった。そして突然《いきなり》そこにあるからの鎧櫃を指さした。
「おうっ、お侍さん。これだ! ね、内部《なか》の物はどうしましたえ?」
ずばり[#「ずばり」に傍点]といってのけた。
ところが侍、雨蛙のような声で笑い出した。
「げげげげ、知らんぞ、そんな物」
「知らねえはずがござんすまい」文次は強くはね返した。
「この鎧櫃に五百両さ」
「くれるのか」
「ちっ、ふざけっこなしに願いますぜ。ねえ、あんたは悪気はなかろうが、こちとら[#「こちとら」に傍点]あ頼まれて鉦《かね》や太鼓で捜してるんだ。こうっ、返してやんなよ。え? いい功徳になるぜおい」
「無礼な口をきくな。貴様たちは何だ?」
「あっしは櫃の内容をいただきに参った者でごぜえます」
「この中に何がはいっていたというのだ?」
「それはあなたが御存じでがしょう。ともかく、この鎧櫃はひいて来た奴の間違えでお手へはいったんで――どうぞお返しを願います」
「わしは何も受け取った記憶《おぼえ》はないぞ」
侍がからだを揺すぶるのが、わざと嬌態《しな》をつくるとしか見えない、威嚇《おどし》のきかないことおびただしい。
「いったいここの家主《おおや》さんはどちらですい」
文次がとぼけた顔できいた。
「向島|六阿弥陀《ろくあみだ》の辻善六《つじぜんろく》殿だ」
「して、あなたはどうしてここにいなさるんで?」
侍は黙っている。この問答、要領を得ないことこの上ない。
「だめだ」安兵衛が口を入れた。「親分、引き上げ引き上げ、このお方に係り合っていちゃあ日が暮れまさあ」
うなずいた文次、安を従がえてつと縁のほうに動こうとしたとき、
「待て!」
侍が呼んだ。
二人が振り返ると、蒼白くすみ切った若侍、ぺっと掌《て》に唾《つば》をして、眠そうな声だ。
「ふん、いつまでもよけいなことを申しおると、用捨《ようしゃ》はない。殺してくれるぞ。この家から生きて出た者はないのだ」
つぶやいたとたん、おや! と思うと、ぐっとひねった居合腰、同時に眼にもとまらぬ早技《はやわざ》でひゅうい[#「ひゅうい」に傍点]と空にうなった切支丹《きりしたん》十字の呪縛剣《じゅばくけん》、たちまちそれを、やんわり振りかぶった大上段の構えは――寂《せき》としてさながら夜の湖面。
眼がすわって、眉が寄って、美しい顔が血にうえているではないか!
「ひゃあっ! 抜いたっ!」
安はてんてこまいだ。そこを文次が、逃《おと》してやる気でとっさに突き飛ばしたから、安兵衛、一枚繰った縁の戸から都合よく階下《した》の庭へころげ落ちた。いや、何とも大変な騒ぎ。
別人のような侍の爪先《つまさき》がさざなみを立てて畳の目を刻んで来る。
たいした手きき、えらい隠し芸、細腕に似合わぬ太刀《たち》さばき、人は見かけによらねえものだ。
「町人、参るぞ!」
刹那《せつな》、冷気が頬をかすめる。かいくぐった文次、縁側へ出た。追いすがる無反《むぞ》りの一刀、切っ先が点となって鶺鴒《せきれい》の尾みたいに震えながら、鋩子《ぼうし》は陽を受けて名鏡のようにぴかありぴかりと光る。
「こいつはほんとに斬る気だな」
と覚悟した文次は、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と刀影が流れるのを機会《しお》に、手近の障子を蹴倒した。
じゃりいん!
障子の悲鳴を背後に聞いて、文次は外光のなかへおどり出た――。
芝生《しばふ》に立つやいな、振り仰いで見ると、早くも今の雨戸は締まって心ありげに落花が打っているばかり、空家はやっぱりただの空家で、物音一つしない。
戸外はのどかな春の真昼だ。
小鳥の影が地をすべる。
門まで来て、裏の饗庭の屋敷を望むと、依然として遠くに釘のような立ち姿、殿様の亮三郎がじい[#「じい」に傍点]っとこっちをみつめていた。
何が何やら文次には考えがまとまらない。夢? 京の夢大阪の夢というが、すりゃこれがお江戸の夢だろうか。
――さて、鎧櫃はみつかったが、からでは閑山もほしがるまい。
いや、それよりもこの貸家で、狂気めいた鋭刃《えいじん》をふるうあの男美人の正体は?
文次は袂に手を入れて何かを握った。
思案にふけりながら妻恋坂の通りへ出ると、はるか下で御免安がびっこを引いている。
「親分」と急に威勢のいい大声だ。「御無事で何より――へへへへ、どうも何ともはや――」
「安、歩けるか」
「え? へえ」
「向島の六阿弥陀道までのしてな、辻善六ってのを当たって来い辻善六だぞ」
安兵衛、急に顔をしかめた。
「あ痛た、た、たっ! おう、足が痛え!」
「すまねえが、頼むぜ。おらあちと思惑《おもわく》があるんだ。首尾は夜|自家《うち》で聞こう」
「しかし親分、ここは一つ手を借りてあの稚児《ちご》どんを引っくくったほうが早計《はやみち》でがしょう」
「まあいいや。御苦労だが、行って来てくんねえ」
しかたがないから安兵衛、
「ごめんやす」
と一言仏頂面に頬かむりをして歩き出す。
別れた文次は、あとをも見ずに急いで昌平橋《しょうへいばし》へかかった。まず連雀町へ寄るつもりであろう。が、橋の半ばで歩がゆるむと自然とその場に立ちどまって、袂から取り出したのは、一枚の小判。
さっき二階の鎧櫃の底にあったものだ。
人間の悲願|煩悩《ぼんのう》を一つにこめて、いつ見ても燦《さん》たる光を放っている。
欄干へ寄って、いろいろと陽にあててながめていると、
「おや! ふうむ、これあ妙だわい」
何か発見したらしい。おどろきと喜悦《よろこび》、つぎにこわい表情が文次の顔に三《み》つ巴《どもえ》を巻いた。手早く金を袂へ返して、何思ったか走り出そうとしたが、よっぽど泡《あわ》を食っていたものと見える。どうん[#「どうん」に傍点]とぶつかるまで向こうから来る人に気がつかなかった。
「お! ごめんなさいよ」
「気をつけやがれ、ど盲《めくら》め!」
声ではっ[#「はっ」に傍点]とすると、そこは職掌《しょうばい》、手がひとりでに自分の袂をつかんだ。
と、小判の手ごたえがない!
「はてな、落としでも――」
振り向くと、めくら縞《じま》長袢纒《ながばんてん》の頸《くび》に豆絞りを結んだ男が、とっとと彼方《むこう》へ駈けて行く。
「うぬ!」
歯ぎしりをして、文次は跡を追った。が、逃げ足は早い。見る見るうちに男は遠ざかる。たまらなくなったいろは屋文次、見得《みえ》も外聞も捨てて大声をあげた。
「すりだ、巾着《きんちゃく》切りだ。つかまえてくれ!」
往来がにわかにざわめき立って、両側の家からも人がとび出て来る。
あけられたら百年目
前の晩のことである。あれで五つごろだったろうか。
女はいつのまにか気を失ったものとみえる――。
こつん、と誰かが軽く外部《そと》から蹴りながら、
「何だ、鎧櫃ではないか」
頭の上で声がするのが、ちょうど水の中を通って来るようにかすかに耳にはいると、女は、ぽうっと、たとえば水蓮の蕾が割れるように、おぼろげながらも意識を取りもどしたのだった。
が、身はいまだ鎧櫃にこもって荷物のように折れ曲がっている。濃い小さな闇黒《やみ》が、眼に近くしっくり[#「しっくり」に傍点]と押し包んでいて、朝眼がさめたときのように、女が前後の事情を思い出すまでにはちょっとのまがあった。
どこだろうここは。
本所牛の御前のお旅所のはず!
――とこの一つが心によみがえると、引き出した端をくぐらせて、もつれた糸玉を解くように、あとは、小口からすらすら[#「すらすら」に傍点]と女の記憶に浮かび上がって来た。
あれは神田連雀町津賀閑山の古道具店だったかしら?
そうそう、あそこでこの鎧櫃にはいったのだったっけ。
そして、あれから?
こうっと、あれから?
本所割り下水石原新町のそば、牛の御前の旅所へ届けるように頼んで、ぱたんと覆《ふた》をしてもらったのだが、あの閑山とかいうお爺さん、だいぶあっけに取られていたようだよ。でもまあ親切なおやじでよかったこと。こうしてあたしのいうとおりに路《みち》を運んでくれたんだから――。
それにしても、浅草から駕籠を追っかけて来たあの仲間、ほんとにしつこいったらありゃあしない。だけど、いくらお祭日《まつり》でもまさかあたしが古鎧櫃のお神輿《みこし》になって車で出て来ようとは思うまいから今度こそはまんま[#「まんま」に傍点]とまいてやったというものさ。ほほほ、兄さんさぞかし今ごろは奴凧《やっこだこ》みたいに宙に迷っていることだろうよ。御苦労さま、いい気味、ほほほ。
鎧櫃の中で、ひとりぼんやり薄笑いをもらしていた女は、このとき愕然《ぎょっ》として呼吸《いき》を呑んだ。
何だか場所が違うような気がして来たからである。それに、
「何だ。鎧櫃ではないか」といった今の声。
おやっ、妙だよ、これは。
本所ではないらしいよ。
はあてね! 考えてみよう――。
ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]と引き出されて、すぐどの方角へ向いたかはもとよりわからなかったが、それでも、しばらく行って橋を渡ったことは、箱へ伝わる車輪《くるま》のひびきででもはっきりと知れた。連雀町から本所へ出るのに、ああ近くに橋があるわけはない。
これはち[#「ち」に傍点]と変だよ――と実はあのときも思ったのだったが、思っただけで、中からはどうすることもできないし、そのうちに、狭い鎧櫃の中で窮屈に揺られているあいだに、長いこと猿ぐつわをかまされたように気がぼうとなったと見えて、どこか路ばたに車がとまっていたことや、それから、ずずっと二、三寸鎧櫃があとずさりして、頭が背後へ倒れて車が坂道へ差しかかったらしいことやなどは、今でも夢か現《うつつ》に覚えているが、その余のことはさながらこの櫃の中の四角い暗闇同然、女はいつしか失神していたのだった。
で、今ここで気がついたときも、まだがたびし[#「がたびし」に傍点]車上におどっているように感じたが、その心持ちがしずまって、いままでのことが走馬燈のように、一瞬に女の頭を走り過ぎると、突如いいようのない新しい不安が羽がい締めのように、鎧櫃の中の女をとらえた。
鎧櫃は確かに下におりている。
が、外部の気配が、不思議にも櫃の中の女の心眼に映じて、どうもここを牛の御前のお旅所とは受け取れないのだ。
戸外ではない。なんとなく屋根の下らしい――家の中?
とすれば、いったい全体自分はどこへ、誰の家へ来たのだろう?
思い切ってあけて出ようか。と考えて、下からそっと覆を押し上げていたが、中の女は知らないもののがんじがらめの締め緒に錠がかかっているから、持ち上がるどころか一分だって動かばこそ。はっ[#「はっ」に傍点]とした女、あらいやだ、冗談じゃないよこれは――と真剣にあわて出したとたん、またもや鎧櫃の真上に当たって、何やらひそひそ[#「ひそひそ」に傍点]ささやきかわす人声。
墓場のような重苦しいあたりのようすに、それは一脈のすごみを投げて、啾々乎《しゅうしゅうこ》たる鬼気を帯びている。
「ど、ど、どうしたのだ、こ、この、よ、鎧櫃は? だ、誰が持って来おった」
きいているのは岩鼻をかむ急湍《きゅうたん》のような恐ろしい吃《ども》りだ。女は聞き耳を立てた。
「は」他の一人が答えている。「ただいま神田の津賀閑山より届けて参りました品、具足でもはいっているとみえ、だいぶ重うございまする」
具足とはよく当てたね、と女はふっとおかしくなった。
「か、か、閑山から?」
さては閑山の相識《しりあい》らしい。
「は、閑山からと申して、下郎が引いて参りましたで、何はともあれ、ひとまず納め置きました」
何はともあれもないものだ。めったな奴に納められちゃあかなわないねえ、この先どうなるんだろうと鎧櫃の内部《なか》で、女が息を凝らしていると、そとでは二
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