じゃ。冬を越した腐れ葉じゃ。もはや役を済ましたもの、あって益のない物、いや、益のないばかりならええが、あるがために新芽の邪魔をするものじゃ、どうじゃ、おわかりかな」
 たましいからたましいへ話しかけることばである。守人はうなずいた。
 にっこりして、玄鶯院は語をつなぐ。
「古い物がのさ[#「のさ」に傍点]ばっておっては、誰しも見苦しい。な、心中|快《こころよ》くない。ただ口に出していうといわぬの相違だけじゃ。そこでどうする? うん? なんとする?」
 ちょっと切って、ささやくような自問自答。
「焼くのじゃ」
 と一言。
 それから大声をあげて下男を呼んで、
「平兵衛《へいべえ》、これよ、平兵衛、火を持て」
「おうーい。今行くだあよ」
 たった一人の老僕へらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛、これは面白い癖のある男、酔うと膝小僧をたたいて陶然と歌い出すのだ。
「へらへらへったら、へらへらへ。あ、へらへらへったら、へらへらへ。あ、へらへらへったら――」
 どこまでいっても同じことだ。へらへらへの一点張り、際限がない。
 が、いまは白昼、素面《しらふ》で風呂をたいていたのが、釜《かま》の下から一本抜いて、燃えているやつをはさんで来る。
「さ、これじゃ」
 と玄鶯院は受け取って、きっと守人の顔を見すえた。
「誰が火を放つ?」
「私が焼きましょう」
 守人の手で、薪《まき》が落ち葉の底へ差し込まれると、むせるような土の香とともに、白い煙がぶすぶすともつれのぼる。
「古い物は焼け滅びる。これでよいのじゃ。これがその最後の勤めなのじゃ。この灰の中から、新しい力が抬頭《たいとう》して来る。のう、やがてはその天下じゃわい」
「先生、すこしおことばに気を付けて――」
「大事ない。ここはわしの庭じゃ。ごみを焼こうと世話を焼こうと、何人《たれ》に気がねがいるものかい」
 相良玄鶯院、両手を腰に、高だかと哄笑をゆすり上げた。
「お爺ちゃま」
 という声がする。
 いつのまにか起きて来たものか、これが新太郎であろう。河童《かっぱ》頭にじんじん[#「じんじん」に傍点]はしょり、五つ六つの男の子が、てんてこてん、てんてこてん座敷の縁ではねている。
「お! あぶない!」
 それを見ると玄鶯院は、古いものも新しい物も忘れて走り寄った。
「おお、よちよち。起きたか、うん? 眼がさめたか」
 抱き上げざま頬ずりをして、そのまま家へはいって行った。
 あとには篁守人が、ひとりつくねんと燃えしぶる枯れ葉をみつめて考えている。
 寝食を廃して国事に奔走する。なるほど雄々《おお》しい美しい名には違いないが、それがややともするとうつろな人間の、しかもほん[#「ほん」に傍点]の上っ面に過ぎないような気がしてならない。さればといってどうすればいいか。
 自分一個の道――こう押し詰めて来ると、そこに忽然《こつねん》と浮かび出るあの女《ひと》の幻。
 守人はそれを打ち消すように、たき火へ風を入れた。勢いを得た焔《ほのお》とともに、自責《せめ》と羞恥《はじらい》が紅潮《べに》となってかれの頬をいろどる。
 俺はこのごろ、全くどうかしているかもしれない。今まで考えなかったことを考えるようになったが、その機縁も俺にだけはわかっている。しかし、ここまで来たのだ。
 もう引っ返すことはできない――この若い浪人、何か事を進めているものとみえる。
「そうだ、やるところまではやろう」
 がしかし、ぬぐい切れないで残っているこのわびしさを何とする?
 このうつろな心をどこへやろう?
 江戸へ出て数年、陋巷《ろうこう》にうずもれているあいだに、少壮《しょうそう》の剣客篁守人もこうまで弱気になったのか。
 病後のせいもあろうが、彼は近ごろ、毎夜のように故郷の夢をみるのだ。眠りに入るとすぐ、満山の緑|清冽《せいれつ》な小川の縁を、酔っぴて幼児《おさなご》となって駈けまわるのである。
 くすぶる火を前に、いつまでもいつまでも守人は庭にたたずんでいた。夕ぐれがはい寄るのも知らずに。
 凝った普請《ふしん》だが住み荒らした庵のうち、方来居と書いた藤田東湖《ふじたとうこ》の扁額《へんがく》の下で、玄鶯院がお盆をかむって新太郎をあやしている。
 ひところ、匙《さじ》一本で千代田の大奥に伺候したことさえあるので、いまだに相良玄鶯院と御典医名で呼ばれている名だたる蘭医《らんい》、野に下ってもその学識風格はこわ面《もて》の浪士たちを顎《あご》の先でこき使って、さて、何をどうしようというのでもない。
 足らないがちのなかに食客《いそうろう》を置いて、こうのんこのしゃあ[#「のんこのしゃあ」に傍点]と日を送っているのだから、確かに変物は変物だ。
 食客というと、この新太郎も怪しくなる。独身《ひとりみ》の謹直家だからもちろん実子ではあり得ない。では養子だろうというに、そうでもない。棄児《すてご》かといえばこれまたしからず。じゃあ何だということになると、実は何でもないのである。
 ただへらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛の相識《しりあい》の按摩《あんま》の夫婦がどこからかもらって来て育てていたのが、去年女房に死なれて盲目《めくら》ひとりで困っているのを、平兵衛が勝手に引き取ってきただけのことなのだから面白い。
 のんきな話もあったもの。
 が、今では主人の玄鶯院が新坊でなくては夜も日も明けないありさまで、夜中に咳《せき》の一つもしようものなら守人と平兵衛を起こしまわっててんてこまい[#「てんてこまい」に傍点]を演ずるという騒ぎ。
 きさく[#「きさく」に傍点]な連中がそろっているからどこの誰の子かは知れないが、新太郎も温い人情に包まれて、幸福に健やかに五つの春を迎えている。
 三人の男世帯へ夜が来た。
 夕餉《ゆうげ》を済ますと、和漢洋の書籍が所狭く積んである奥の一間で、玄鶯院は新坊を寝かしにかかる。
「坊やのお乳母《うば》はどこへ行た、あの山越えて里へ行た。里のお土産《みや》に何もろた。でんでん[#「でんでん」に傍点]太鼓[#「太鼓」は底本では「大鼓」]に笙《しょう》の笛――」
 調子はずれの子もり歌が、薄暗い行燈《あんどん》の灯影《ほかげ》に揺れる。
 と、守人は、すでに幾人《いくたり》かの生血を知っている水心子正秀《すいしんしまさひで》の作、帰雁《きがん》の一刀を腰にぶち込んで、忍びやかに方来居を立ちいでようとした。
「えへん」
 玄鶯院の咳払いだ。
「守人殿、今ごろからどこへ行かるる?」
 守人は土間にすくんだきり、返事がない。
「そこもとの身にはある筋の眼が光っていることを、よもやお忘れではあるまいの。昨日今日とでも怪しき風体の者が、この界隈《かいわい》に出没するということじゃ。夜歩きには充分に気をつけたがよいぞ」
「御心配御無用。私には供がございます。帰雁と申す――」
 戞然《かつぜん》と鍔《つば》を鳴らして、守人は蒼白く笑った。
「さようか。それもよかろう。が、帰宅《かえり》のほども知れまい。雨催いじゃ。守人殿、傘《かさ》を持たれよ」
 あとはまた子もり歌に変わって、
「西が曇れば雨となり、ひがし曇れば風となる。千石積んだる船でさえ、暴風雨《あらし》となれば出てもどる」
 唄声を背後《うしろ》に、やがて守人は宵闇《よいやみ》の中へさまよい出た。ひやりと横鬢《よこびん》をかすめる水気に、ぱっと蛇《じや》の目《め》を差し掛けて、刀の柄を袖でかばった篁守人、水たまりを避けて歩き出した。
 この、人が家に納まるころおいに家を出て、いったいどこへ行こうというのだろう?
 しとしと[#「しとしと」に傍点]と春の夜の小雨が煙っている。


    ぬれ燕《つばめ》


   とんだあぶねえ二枚目だぜ

 真昼間《まっぴるま》の恐怖は、白っぽいだけに人の背筋へ氷のような戦慄《せんりつ》を注ぎ込む。何やら得体の知れぬ力に押えつけられてただしいん[#「しいん」に傍点]と心耳に冴え返るばかりだ。百万千万の視線が、眼に見えぬ槍ぶすまとなって、前後左右と上下に迫って、動いたが最後、ぷすっとどこからでも血が出そうな気がする。
 悪熱《おねつ》のようなこの静寂の中に、戸外から舞いこんだ桜ふぶきが悩ましく乱れ飛んでいる。
 この一刻は長い。
 湯島妻恋坂の影屋敷。
 花の吹き込む二階で、いろは屋文次と御免安が、手に汗を握って前方《まえ》をみつめていると――。
 ざ、ざざ、ざ――と襖があき出したが、これは向こう側に人がいるのだろう。いくら怪しい家でも唐紙がひとりで動くわけはない。
 とはいえ、この空家にさっきからの人声。さては、鬼が出るか蛇が現われるかと、文次と安は上半身を前へかがめて互いに充分な気配り。何かは知らぬが、相手しだいではもちろんどんなにでもあばれるつもりだ。
 と、さらり、襖があいた。
 縁から射す未《ひつじ》の刻の陽をまともに浴びて、ひとりの若侍が立っている。
 ぞろりとした着流しに長い刀《やつ》をりゃん[#「りゃん」に傍点]ときめて、所在なげに両手を帯前へ突っこんでいるのだが、それが、早い話が若様御成人といった形で、このところすくなからずあっけない感じだ。
 文次はほっ[#「ほっ」に傍点]と息をもらした。気負いかかっていただけにいっそうきょとん[#「きょとん」に傍点]として、取って付けたようなおじぎをすると、侍はもうこっちの部屋へ踏み込んで来て、二人の鼻っ先に迫っている。
 その顔を見て今度は文次、思わず、
「や! これは!」
 と心中|驚愕《おどろき》の声をあげた。
 まるで歌麿《うたまろ》の女である。月の眉、蕾《つぼみ》の口、つんと通った鼻筋に黒みがちの瞳《め》、江戸じゅうの遊里岡場所をあさっても、これだけの綺麗首《きれいくび》はたくさんあるまいと思われるほど、名代の女形《おやま》が権八にふんしたような、実にどうも優にやさしい美男。
 これにつけて思い出すのは、津賀閑山の下男久七が、確かに女のような若いお武家さまが鎧櫃をお受け取りになりましたと申し立てていること。ははあ、さてはこいつだな、と文次はひそかにうなずいたが、それにしてもこの二枚目、何しに空屋にうろうろ[#「うろうろ」に傍点]している。
 白粉《おしろい》焼けのような、荒淫《こういん》にただれた顔に桜花《はな》の映ろいが明るく踊っているのが、男だけにへんに気味が悪い。
「何だ。貴様らは何だ?」
 口の隅から侍がいった。文次は二度びっくりした。その声であるが顔や姿とは似も似つかない。これはまたどら猫を金盥《かなだらい》へたたきつけたような、恐ろしいじゃじゃ[#「じゃじゃ」に傍点]ら声なのだ。
「何しに参った?」と手を帯へはさんだままで、「うむ、これ、何しに来たのだ」
 文次があきれて黙っていると、侍は、ぞっとするようななよなよ[#「なよなよ」に傍点]したからだつきで鼻がくっつくほどひた押しに押して来る。
「へえ、あの」勝手が違うので文次もまごつかざるを得ない。
「通りすがりに貸家札を見ましたので、実はその、お邸を拝見に上がりました。あなた様はこちらの――?」
 しどろもどろにいいかけると、色気たっぷりな若侍の眼に、魅殺するような悩ましい笑いがのぼった。
「あなた様はこちらの――どなたで?」
 文次はくり返した。組しやすいと見たのだ。金と力のないのが色男の相場、こんな陰間《かげま》の一匹や二匹、遠慮していては朱総《しゅぶさ》が泣かあね。
「なに? どなた? 貴様らこそ何だ」
 侍は一本調子だ。
「ですから今も申し上げますとおり、ちょっと貸家を見に――」
 文次の口の動くのをみつめて、侍は片えくぼを深めている。安兵衛め、少しずつ安心してにやにや[#「にやにや」に傍点]し始めた。
 文次は手を振った。
「まあま、御安心なせえまし。わたしどもは決して貸家にはいり込んで他人様《ひとさま》の荷を知らん顔して着服するような者じゃあごわせん。ねえ、あなたはここで鎧櫃を受け取ったそうですが、ちと悪戯《わるさ》が過ぎませんか。まあさ、仮に、仮にですよ、泥棒――といわれても
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