桜の林、八重には早いから今が彼岸の花盛りだ。ほめて酒を汲む人もないのに、惜しげもなく爛漫《らんまん》と咲き誇って、さながらうす紅色の綿雲をかけつらねたよう――。
 うっとりとなった二人の頭へ、すぐに眼前の問題がかえって来る。
 文次と安兵衛は顔を見あわせた。
「ねえ親分、ゆうべのうちに夜逃げしたものでしょうかねえ」
「いんや、そんなこたあるめえ。このはり紙がこう古くなるまでにあ、どうみたって二月、三月はかかろう。それに久七だって空家へ荷を入れるわけもねえし、また、ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と出て来て受け取った者があるというんだからなあ」
「へえい! 狐《きつね》につままれたような話ですねえ」
「そうよなあ」
 感心とも当惑ともつかない体、二人ともぼんやりして、たがいの顔と表戸のはり紙を見較べているばかり。
 これではきりがないと思ったか、文次は、
「へたの考え何とかといわあ。なあ安、どうだ。屋敷を一まわりしてみようじゃあねえか」
「ようがしょう、何かとび出さねえとも限りやせんから」
「うむ、化け物が巣をくった跡でもあるかもしれねえ」
 玄関から建物にそうて、横手へまわって裏へ出る。亭《やかた》を張った井戸がある。
 のぞいていると、
「えへん」
 遠くで咳《せき》払いがする。
 水の底から?
 文次はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてそこらを見まわした。ひら、ひら、ひら、と花が散る。
「えへん」
 何だ、おどろくことはない。饗庭の邸に人がいるのだ。
 一面の桜の上に、船のように遠く浮かんで、饗庭の二階が見える。その縁に立って、じっとこっちを望んでいる人物、豆のように小さく、黒文字のように細いが、忘れもしないさっきのお殿様、饗庭亮三郎である。
「またにらんでやがらあ」
 こう思うと文次は、わけもなくおかしくなった。
「ねえ親分――」
 妙にしんみりした口調で、御免安がいっている。
「その鎧櫃とかに何がへえってたのか親分はほんとに御存じねえんですかえ」
「それがよ、閑山は俺にあ五百両の金を入れといたと話したが久七には具足といったらしいんだ。何だかわからねえ」
 文次はちら[#「ちら」に傍点]と安兵衛を見る。
 昨日の女が気にかかるらしい安兵衛、いつになくしょげているようすだ。
 こいつ、ことによったら何かのんでいやしないか。
 ――と文次はきっ[#「きっ」に傍点]となったが、さあらぬ態で微笑にほぐらかし、そこから中庭を横切って、散りかかる桜花《はな》の下道を背戸へまわって二階建ての母屋《おもや》、焼きつくような饗庭の視線を絶えず首筋に意識しながら、ここが奥座敷と思われるあたりへ出た。
 ずらりと閉《たて》切った縁側の雨戸に、白っぽい日光が踊っている。
「どこかはいれるところがあるだろう。安、あけてみな」
 文次のさしずに、安兵衛はさっそく、戸袋に近い一枚へ手をかけて、どうもしようのない剽軽《ひょうきん》者だ。
「ちょっと切り戸をあけてんかいな、あけてんか、お隣さん、もし、お内かお宿か、おるすさんかいなあ。いぬのにとんとん[#「とんとん」に傍点]とたたいても、ええ、ほんにじれったいではないかいな」
 唄に合わせてがたぴし[#「がたぴし」に傍点]やっている。のんきな奴だ。
 やっとのことで、どうやら、横にはいれそうなすきまができる。
 そこから上がり込んだ。
 明るい戸外から来た眼が、しばらくすっかりくらんで、黒闇《やみ》に慣れるまでにかなりのまがある。
 ほこりのにおいがむっ[#「むっ」に傍点]と鼻を打つ。
 水のようにひえびえとした空気に、板戸の継ぎ目や節穴をもれる陽が射しこんで、玄妙な明暗の縞《しま》を織り出していた。
 内部から桟をはずして、順ぐりに雨戸を繰ると、さながらどっ[#「どっ」に傍点]と音を立てて、この家にも、はじめて春が流れ込んだ。
 さすが饗庭邸と同じ建築《つくり》だけあって、いかさま、これなら数百石のお旗下が住んでも恥ずかしくない屋敷だ。欄間《らんま》といい、床の間、建て具、なかなかどうして金をくっている。
 何の間、かにの間とそれぞれ用途によって名があるのであろう。広やかな座敷がいくつもならんでしいん[#「しいん」に傍点]と墓場のよう、きのう人のいたけはいなぞはみじん[#「みじん」に傍点]もない。
 中廊下の取っつきの梯子段《はしごだん》の裾《すそ》が見える。
 襖《ふすま》のかげや小暗い隅へ気を配りながら、二人は階段を踏んで二階へ上がった。
 真の暗《やみ》。
 縁のほうへ手探り寄って、戸をあける。
 外光に照らし出された十畳の間、三方唐紙に閉ざされている。
 何気なく足を入れた。
 と、その真ん中に置いてある一つの物。
 鎧!
 黒革《くろかわ》張りに真鍮《しんちゅう》の鋲《びょう》を乱れ打ちに打った、津賀閑山が騒ぎまわっている、あの鎧櫃だ!
 これだっ!
 あった、あった!
 と見るや、文次よりも安兵衛があわてた。ころがるように走りよって、
「親分、骨を折らせやがったが、これでげしょう? あけやしょうか」
 手は早くも蓋《ふた》にかかっている。
 そのそばに、文次はのっそり[#「のっそり」に傍点]と立った。ごくりと唾を飲んで、眼であいずをすると、錠はこわれているから、安の手で難なく蓋が持ち上がった。
 思ったとおり、も抜けの穀だ。
 が、底に、何やら光った物が落ちている。
「何だい、これあ」
 安から受け取って、文次が掌《て》に置いて見ているうちに――、
 はてな――という面もち、
「お、これは――」
 といおうとすると、くす、くすくす、くす、どこかで人の忍び笑いがする。
 はっ[#「はっ」に傍点]として身を引くとたん、
「おい」
 突き刺すような一言、ひしがれたかれ声が耳の近くで。
 文次と安、思わず眼を見合う、二人のほか誰ひとりいないこの部屋である。
「おい」
 またしても声だ。が、どこからするのか見当が立たない。
 隣室《となり》からか、天井裏からか。
 いや、声だけが眼の前の空にただよっているのだ。
「いけねえ!」
 つぶやいた文次、安を促してあとずさりしようにも、これが不動金縛りというのか、足がくぎづけになって身動きが取れない。
「動くな、逃げようとて逃がしはせぬぞ」
 どこからか見ているものとみえて、声は静かにつづける。
「そのほうども何用あって参った。いやさ、誰に頼まれて当屋敷へ踏み込みおった?」
 ひしひしとあたりに人体の気を感ずる。四方八方から眼が光っているようだ。迫る鬼気《きき》に呼吸《いき》がかたまって、二人はもう額に汗をかいている。
 そこへ、一枚あけ放した戸から、風とともに吹き込むおびただしい桜の花びら――花ふぶきだ。
 さらさら[#「さらさら」に傍点]と生あるごとく、畳をなでている。
 散る花の命。
 文次は手を握りしめた。
 二寸、三寸、五寸、むこうの襖が、すべるようにきしむように、見えぬ手によってあきつつある――。

   青山夢に入ってしきりなり

「また、春じゃのう」
 相良玄鶯院《さがらげんおういん》は、熊手を休めて腰をたたいた。ついでに鼠甲斐絹《ねずみかいき》の袖無着《ちゃんちゃんこ》の背を伸ばして、空を仰ぐ。刷毛《はけ》で引いたような一抹《いちまつ》の雲が、南風《みなみ》を受けて、うごくともなく流れている。
 今そこらをはきおわったところであろう。狭い庭の隅に、去年の落ち葉をあつめて小さな塵塚《ちりづか》ができている。
 永日閑居とでも題したい、まことにのんびりした図。
 ここ本所割り下水といえば小役人と浪人の巣だが、その石原新町お賄陸尺《まかないろくしゃく》のうら、と[#「と」に傍点]ある巷路《こうじ》の奥なるこの庵室は、老主玄鶯院の人柄をも見せて、おのずから浮世ばなれのした別天地をなしている。
 白髪《しらが》を合総《がっそう》に取り上げた撫付《なでつ》け髷《まげ》、品も威もある風貌、いわば幾とせの霜を経た梅の古木のおもかげでこの玄鶯院と名乗る老翁《おやじ》、どうもただの隠者とは受け取れない。
 遠くの物音に耳を傾けるように、たとえば世の中の動きを聞きとろうとするように、老人は態手にもたれて立っている。
 近所の道場に、お面お小手と稽古の音がする。
 雨のような日光――。
 やがて老人はうしろを振り返って低声《こごえ》に呼んだ。
「守人《もりと》殿、守人殿」
「は、はい」家のなかから含み声の返事。
「お呼びになりましたか」
 といったが、出ては来ない。
 内と外とに静かなやりとりがつづく。
「どうじゃ、新太郎は眠っているかの」
「はい、さっきまでむつ[#「むつ」に傍点]かっておりましたが、今はよく眠っております」
「はははは、厄介坊主《やっかいぼうず》め、さすがの篁《たかむら》守人もそのあくたれにはほとほとてこずりおると見えるのう。はははははは」
 老若二人の笑い声が、愉快そうに一つに合う。が、家の中の笑い声には、何がなし一脈のさびしさが響いていた。
 玄鶯院は何事か思いついたように、
「守人殿」
「はい」
「ちと戸外《そと》へ出られてはどうじゃな」
「――」
「下世話にも病《やまい》は気からと申す。いまの若さに欝気《うつけ》は大の禁物《きんもつ》じゃ。ああ、ええ陽気じゃわい。枯れ木にも花が咲いて、わしがごとき老骨でさえ浮かれ出しとうなるて。わっはっはっは」
「先生、そんな大きな声をお出しになると、新太郎さんが眼をさまします」
「おお、さようじやったな。しかし、今年の春はまた格別じゃぞ」
「わたくしには、その春の命がいかにも短いように思われてなりませぬ」
「またしてもそのような述懐! 京表よりもどって以来、そこもとはどうも気が弱うなった。いいやいや隠さんでもよい。人の心はさまざまの日が来るものじゃ、うむ、それよりも守人殿、ここに一つ、ぜひ御辺に見せたいものがある」
 年寄りだけあって、玄鶯院は古風ないい方をする。
 家内《なか》では守人がたちあがるようす。
「先生、何でございます」
「まずこれへ出られい」
 とうとう引っ張り出された形、竹の濡縁《ぬれえん》から庭下駄を突っかけて、ゆらりとおり立った一人の若者。
 水戸の浪士篁守人である。[#「篁守人である。」は底本では「篁守人である」]
 まだ前髪を落としてまもなかろう。色白の中肉中背、といっても野郎風ののっぺり[#「のっぺり」に傍点]顔ではない。気骨|凌々《りょうりょう》たる眉宇《びう》と里見無念流の剣法に鍛えた五体とがきりり[#「きりり」に傍点]と締まって、年よりは二つ三つふけても見えようが、病み上がりとはいえ、悍馬《かんば》のようなはなやかさが身辺にあふれているから、苔《こけ》臭い庭がぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなったほど、なんとも立派な若衆ぶりだ。
 ことに切れ長にすんだその眼、それには異性の琴心をかき乱さずにはおかないあるやさしい悩ましさを宿しているところを見ると、この守人、ことによると、いたるところで思わぬ罪つくりをしているかもしれない。
 それはそうと、相手が洒落気たっぷりの老人だ。何か見せる物があるとのことだが、真に受けていいものかどうかとあやぶむように、守人はくすぐったそうにほほえみながら近づいてゆく。
 そんなことにはおかまいない。玄鶯院は石のように大まじめだ。
「これじゃ。何としても御辺に見せたいと思うたは、これじゃよ」
 といきなり足もとの落ち葉を指さした。
「ははあ」
 感心を装った守人、来たな、また何か人の悪いおち[#「おち」に傍点]があるのだろう、と考えたのでにやにや[#「にやにや」に傍点]黙っている。
 ところが、玄鶯院は珍しく口がすくない。しゃがんで、棒きれで落ち葉の山を突ついてる。
 いつまでたっても突ついているから守人のほうからきいてみた。
「それが、何でござりまする」
「これかの」
 と老人が顔を上げたとき、黒豆のような瞳がきらと輝いているのに、守人ははっ[#「はっ」に傍点]と息を呑んだ。
「これか」玄鶯院がいう。「これは、見らるるとおりの朽ち葉
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