生というのは、詩の作者|頼三樹三郎《らいみきさぶろう》のことで、旧臘《きゅうろう》廿五日、頼は梅田雲浜《うめたうんぴん》老女村岡ら三十余人とともに京師《けいし》から護送されて、正月九日江戸着、目下は松山藩松平|隠岐守《おきのかみ》の屋敷に預けられて評定所の糺問《きゅうもん》を受けているのだった。この詩は、豪放|磊落《らいらく》な三樹が、終天の恨みをこめ軍駕籠《とうまる》で箱根を越えるときに詠じたもの、当時|勤王《きんのう》の志士たちは争ってこれを口ずさんでいた。
「頼先生始め同士先輩の上を思えば、時世時節《ときよじせつ》とは申せ、お痛わしい限りじゃ。拙者は、幕府の仕儀が一から十まで気にいらぬ。徳川の流れに浴する身ではあるが、その水も濁ったわい。なあ、貴殿はそうはおぼしめされぬか」
 侍はちら[#「ちら」に傍点]と守人を見る。守人にも油断はない。
「さようなこと拙者はいっこうに存じ寄りませぬ」
「いんやいや、胸底おのずから相通ずるものあり、警戒は御無用」
「と申したところで――」
「赤鬼め、長いことはあるまい」
 赤鬼とは大老|井伊《いい》のこと。守人はどき[#「どき」に傍点]っとして口をつぐんだ。これは――うっかりできないぞ。
 雨がしげくなった。
 二人は黙って二、三間歩いた。
「貴殿はいずれの御藩かな。それとも御浪士か」
 こうききながら、侍は、手にした提灯の灯を、それとなく何度も守人の袖へ向けて、定紋を読もうとしている。
 どっこい!
 そこらにぬかりはあるものか。
 このとおりちゃあん[#「ちゃあん」に傍点]と無紋を着ている。
「水戸が彦根殿の首をほしがっておるそうじゃが、貴殿水戸ではあるまいな」
「――」
 守人はひそかに刀の目釘《めくぎ》を湿した。
 沈黙のうちにまた四、五間。
 と、二、三歩前へ出た侍、いきなり守人の往く手に立ちはだかった。
「これ、篁守人、はっはっは、どうじゃ、驚いたか」
 守人は立ちどまって静かに傘をすぼめている。
「おい、篁、何とかぬかせ」
 侍が詰めよせた。守人はにっこりして、
「うん。そういう貴様は何者か。名をいえ」
「名乗りはできぬ。が、役目をいおう」
「うふふふ、役目はいわいでもわかっておる。捨て扶持《ぶち》をもらって幕府のために刺客を勤むる痩《やせ》浪人であろう! 拙者はいかにも篁守人、それと知ったらなぜ斬ってかからぬ? 来い!」
 侍が提灯を上げた。これが合図。うしろに数人の跫音《あしおと》が迫る。
 が、守人は見むこうともしない。
 どこを吹く風か、といったふう。
 気を焦った長身肥大の侍、足を開きざま、
「やっ!」
 抜き打ちにざーあっ! と横なぎ、傘を切った。
 がっし!
 青い火花が雨に散って、いつのまに鞘《さや》を出たか、帰雁の利刃《りじん》が押して来る。
 ぎ、ぎ、ぎ、と鍔《つば》ぜりあい。
 深夜。
 もうここは堀田原《ほったはら》の馬場。
 久しぶりに一つ帰雁に血膏《ちのり》をなめさせようか。
 ぐるりと右にまわって見ると、刀を伏せた黒法師の群れが、はうように慕い寄っている。
「こしゃくな!」
 気合いとともに、無念流引きよせの一手、つつ[#「つつ」に傍点]と手もとをおろした。虚をくらった侍、思わずつり込まれて体がくずれる。
 そこを!
 ざっくり一太刀《ひとたち》、帰雁が黒頭巾を割り下げた。
 苦もない。今までしゃべっていたやつが、脳漿《のうしょう》を飛ばしてそこにころがっている。
 死骸をまたいで、守人は帰雁を青眼に影の円陣に立った。さっ[#「さっ」に傍点]と輪が開く。手近の一人にいどみかかると、たじたじ[#「たじたじ」に傍点]とさがって溝板《どぶいた》をはね返した。
 そのすきに、守人は走り出した。懲《こ》りずまに、人影が一団となって追って来る。
 しかし、それもだんだん遠のいたようなので、守人は駈けながら懐紙で刀をぬぐって鞘に納めて、それでも、大事を取って、雨を衝《つ》いて一散に急いだ。
 気がついてみる、ここは橋場の浄徳寺門前だ。
 道路《みち》に一すじ赤っぽい光を投げて、まだ一軒の煮売り屋が起きている。
 めし、有合せ肴《さかな》――野田屋と書いた油障子をあけた守人、
「許せよ」
 ずいとはいり込むと、客が一人、酒樽《さかだる》に腰を掛けて、老爺《おやじ》を相手に盛んに弁じ立てている。
「どうも今夜ってえ今夜こさあえれえ目にあったよ」
 これが例の御免安兵衛だ。野郎、こんなところに神輿《みこし》をすえて、だいぶきこしめしているとみえる。
「何がってお前、向島まで、いもしねえ人を尋ねて行ったんだ。辻善六なんて名はどこをきいてもありゃあしねえ。おかげでずぶ[#「ずぶ」に傍点]ぬれよ。ちっ、馬鹿を見たの何のって――」
 とそこへ、守人の侍姿が眼にはいったので、安兵衛、恐縮して黙りこんだ。
 狭い土間、守人は気軽に、安とならんで腰をおろして、蒼白《あおじろ》くほほえんでいる。
 お愛想《あいそ》ぶりにちょっと行燈をかき立てて、注文の小皿《こざら》盛りと熱燗《あつかん》を守人の前へ置いてから、老爺はまた安へ向かって、
「向島はどこへ行きなすったい」
「六阿弥陀よ」
 と調子づいた安兵衛、
「ねえ旦那《だんな》」と今度は守人へ、「あっし[#「あっし」に傍点]ゃあどうしても旦那に聞いてもらいてえことがあるんだ。この雨の中をいってえどこへ行って来たとおぼしめす? 向島六阿弥陀! いや全くのはなしでさあ。まったくの話」
 くどいのは酔漢《よっぱらい》の癖。老爺ははらはら[#「はらはら」に傍点]している。
「そうか。それは気《き》の毒《どく》だったな」守人はくだけて出て、「貴様だいぶいける口と見える。まあ一杯やれ」
「へえ。ありがとうございます。どうも旦那を前にしていうのは気がさしやすが、お侍さんにしちゃさばけたお方で、お若えのにえれえ。見上げたもんだ」
「うむ。面白い奴だな。貴様|稼売《しょうばい》は何だ」
「何に見えやす?」
「当ててみいと申すか。そうよな、どうせろくなものではあるまい。まず博奕《ばくち》打ちかな」
「えっへっへ、お眼がお高い、へへへへへ」
 酒杯《さかずき》を中に笑い合っているところへ、
「ここだろう」
「ここだ、ここだ」
「ここへはいったらしいぞ」
 と表に当たって、にわかに人の立ち騒ぐ声。
 安兵衛はぽかんとして守人を見た。と、守人の手がそっ[#「そっ」に傍点]とそばの刀に伸びている。
 さては――と安が腰を浮かしたとき、戸外では、
「なに、ここではあるまい。もっと先へ走ったようだ」
「そうだ。先だ、先だ」
「それ行け」
 と口々に叫びかわして立ち去った模様。
 眼の前の侍は、しずかに盃《さかずき》を口へ運んでいる。
 その袖を見て、安兵衛、愕然《ぎょっ》とした。
 べっとり[#「べっとり」に傍点]と血糊がついていた。
 酔ってはいても、蛇の道は蛇。
「おい、爺さん、代はここへ置くよ」
 安は蒼白《まっさお》になってそそくさ[#「そそくさ」に傍点]と立ち上がった。
 変に思った守人、ちらと自分の袖を見てどきり[#「どきり」に傍点]としたが、ぐっと呑んでさあらぬ顔。
「行くのか」
「へえ」
「まだ雨が降っているぞ」
「よく――よく降りますね」
「うん。青い物が助かる」
「青い物が助かります。旦那、お先へごめんやす」
 裾をまくって頭からかぶった御免安、達磨《だるま》に足が生えたような恰好《かっこう》で、野田屋の店をとび出した。
 同時に、守人もたった。
 おっ取り刀である。
「老爺、今の男は定連か」
「いえ、初めてのお顔でございます」
「よし!」
 うなずくが早いか、ばらりとそこへ小銭をつかみ出して、物をもいわず守人は外へ出た。
 さっきの人数を呼び返す気であろう。暗黒をのぞきながら、安兵衛が駈けて行く。
「おのれっ! 見んでもいい物を見おって――いらぬ筋へ忠義立てする気だな。ひょっとすると不浄の小者であろうも知れぬ」
 ぷつり、帰雁の鯉口《こいぐち》をひろげて、ぴしゃぴしゃ――守人は飛泥《はね》を上げて追いすがる。
 雨脚が太くなった。

   犬もあるけば棒にあたる

 守人はあきらめた。
 泥濘《ぬかるみ》をとび越えて走って行く御免安兵衛の姿は、鳥羽絵《とばえ》の奴《やっこ》のような恰好に、両側の家をもれる灯のなかにおどったり消えたりして、見るみるうちに小さくなる。
 やがて、浅茅原《あさじがはら》の闇黒にのまれてしまった。
 あとには、夜の春雨が霏々《ひひ》としてむせび泣いて、九刻《ここのつ》であろう、雲の低い空に、鐘の音が吸われていった。
 ふ[#「ふ」に傍点]と気がつくと、帰雁の柄《つか》へかけた右手の甲に、夜目にも白い雨滴が流れて、さっきの騒ぎに傘を切られた篁守人、頭からびしょ[#「びしょ」に傍点]ぬれになって橋場の通り銭形《ぜにかた》のまえに立っている。
 ぱちんと鍔《つば》を落とすと、守人は、
「ちっ」と舌打ちをした。
「下郎め、この袖の血を見てとび出しおったが、追っ手の者に訴人致す気に相違ない。万一、不浄の小者ででもあってみれば、存分に顔を見られた以上、どうあっても生かしてはおけぬ奴――ううむ、これは惜しいものを取り逃がしたぞ。血しぶきついでに斬って捨てようと存じたに、いつのまにやら見えずになった。いま眼の前にちらつきおったかと思うと、もう半丁さきを駈けおる。いや、脚の早いやつだ。
 まま、おかげでおれも、いやな殺生《せっしょう》を一つせずに済んだというもの。また彼奴《きやつ》とても命拾い、こりゃいっそ[#「いっそ」に傍点]両得かもしれぬ」
 往来の真ん中で、守人は遠くへ耳を澄ました。あたりを打つ雨音の底に、夜のふけるひびきが陰深と鼓膜を[#「鼓膜を」は底本では「鼓膜と」]衝いて、安兵衛も、黒装束の人数も引き返してくる気勢《けはい》はない。雨に眠る巷《まち》の、真っ暗なたたずまい[#「たたずまい」は底本では「ただずまい」]である。守人は小手をかざした。
「や、降るわ、降るわ。天の箍《たが》がゆるんだとみえる。うむ、このこころの塵《ちり》を洗い清めるまで降れ! 世の人も押し流して、降って降って、降り抜くがよい。ははははは」
 口の中で笑って、かれはもと来たほうへ歩き出した。いつしか風さえ加わったらしい。大粒の水が頬をたたいて、ぬれた裾は、板のように足の運びを妨げる。
 それはもう春雨などという色っぽいものではなかった。新しい時世を生み出そうとする陣痛と、わずかに残骸の威をかりて一日の余喘《よぜん》を保とうとしている今日の徳川幕府、この衝突を中心に、目下全国いたるところに血を流し、肉を飛ばしている悲雨惨風、これをそのまま形に表わしたような、すさまじい暴風雨《あらし》の夜となっていた。
 が、守人の心中には、浮世のあらしよりも、今夜の雨風よりも烈しい、大きな渦《うず》がまいていた。近寄る人をまき込まずにはおかない愛慾《あいよく》の鳴門《なると》だ。守人は全身に雨を受けて、手負いのようにうなりながら、帰路《かえり》を急いだ。
「そこもとの身にはある筋の眼が光っておることをよもやお忘れではあるまい」
 方来居を出るときに玄鶯院がこういった。このある筋とは何をさすものか、それは、いうまでもなく守人にはわかっている。わかっていて、なおかつ愛刀帰雁を唯一の護身者として、こうして暗黒《やみ》に紛れて出て歩くには、守人にしても、そこによほど重大な用向きがなくてはかなわぬ。
 じっさい守人は、このごろ毎晩のように歩きまわるのだ。月が照れば照ったで月夜烏のように、雨が降れば降ったで雨を切ってぬれ燕《つばめ》の飛ぶように、かれは夜ごとに家をあけて、どこをどうぶらつくのか、暁近くこっそりと方来居の裏木戸をくぐるのが常だった。
 そのときいつも必ず目をさましている玄鶯院は、そばの冷たい寝床へはいる守人をただじろりと見やるだけで、ついぞことばをかけたことはなかったが、守人は蒲団《ふとん》をかぶるまえに、玄鶯院に指を出して見せるのだ。それが人さ
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