し指一本のこともあるし、中指を加えて二本のことも、あるいは三本四本と指を突き出すことも、または一本も出さないこともある。
そうすると玄鶯院は、さむざむしい明け方の光のなかで、口をへ[#「へ」に傍点]の字なりにしてうなずいたり、眼を輝かしてにっこり[#「にっこり」に傍点]したり、守人の指の多いときにはほう[#「ほう」に傍点]というようにくちびるを丸く開いて見せたりする。しかし二人とも声を出すことは決してない。そして守人は、昼間《ひる》は病気とか病後とかいい立てて引きこもっているのだ。
新太郎を遊ばせて他意なく見える守人と、蝙蝠《こうもり》のように陰から陰へと夜歩きをする守人、このふたりが同一人であるさえ、すでに奇怪なのに、朝帰って守人が老主に示す指は、果たして何を意味する?
数。もとより何かの数を語るものではあろうが。
それはさておき、守人のこの夜あるきも、単なる散歩にしては危険が伴い過ぎる。かといって、どこと定まる目的《あて》もないらしく、今夜のように足にまかせてほうつきまわるのだが、公儀を向こうへまわす身にとっては寸刻の油断もあってはならぬ。ことに、今日このごろのように浪士狩りが辛辣《しんらつ》になって、しかもああ顔を見識《みし》られていることを思えば、守人も今さらのように身内が引き締まるのを覚えるのだ。
国表|里見無念斎《さとみむねんさい》の道場において、師範代の遊佐銀二郎《ゆさぎんじろう》とともに無念流双璧とうたわれた篁守人、帰雁の柄をたたいて肩をそびやかした。
「未熟な手腕《うで》をもって刺客などとは片腹痛い。それにしても、きやつかっぷくに似ずもろかったなあ」
雨の矢をまっこうから向けて[#「向けて」はママ]、守人は高だかと笑った。
しかし、これあ何も相手が弱いのじゃなくて、守人が人なみはずれて強いのだからしかたがない。久しぶりに生きてるやつをすっぱり[#「すっぱり」に傍点]やって、守人の腕もうなれば、帰雁も、鞘の中でひくひく[#「ひくひく」に傍点]動いている。
人を斬るとあとをひく。
あきらめられぬとあきらめた悲しい恋に苦しむ守人が、よしや血にすさんだとてもむりからぬ次第、考えてみれば御免安兵衛、今夜はまことにあやういところをのがれたわけで、帰雁に追いつかれたあとから、いくら「ごめんやす」をきめ込んでも納まる騒ぎではなかったのだ。
足の早いのも確かに一得。守人をねらう黒法師の群れを見失った安は、今ごろは吉原《なか》へでもしけ[#「しけ」に傍点]込んでどこかのちょんちょん[#「ちょんちょん」に傍点]格子で枕の番でもおおせつかっていることであろう。
暴風雨をおかして帰り着いた篁守人。
もうここは割り下水の方来居。
相良玄鶯院が草庵だ。
ぬれ鼠の守人が、そっ[#「そっ」に傍点]と裏口の腰高障子をあけると、乱雑に脱ぎ捨てたおびただしい高下駄で、土間は足の踏み場もない。
奥の八畳に徹夜の寄り合いが開かれている。
目をつぶって腕組みした白髪童顔の玄鶯院を中央《なか》に、十五、六の人影が、有明《ありあけ》行燈の灯をはさんで静まり返っていた。
幕府が最も苦手とする水藩志士の面々である。
筆初めに首領高橋多一郎、関鉄之助、森五六郎、広木松之助、鯉淵要人《こいぶちかなめ》、岡部三十郎、斎藤|監物《けんもつ》、佐野竹之助、蓮田《はすだ》市五郎、稲田重蔵、増子金八、大関和七郎、広岡|子之次郎《ねのじろう》、遊佐銀二郎、山口|辰之介《たつのすけ》、海後磋磯之助《かいごさきのすけ》――名を聞いただけでも恐ろしい面だましい。
大関をはじめ神田お玉が池千葉周作先生の門弟が多いから、いずれも北辰《ほくしん》一刀流の使い手がそろっている。
よくもこう網の目をくぐって集まったもの。二百石小姓佐野竹之助なぞは、あくまでさようしからばで四角張っているが、岡部の三十はぐっ[#「ぐっ」に傍点]とくだけて小意気な縞物《しまもの》、ちょっと口三味線《くちじゃみせん》で小唄《こうた》でもやりそう。おのおの器用に化けてはいるが、なかでも奇抜なのは森五六郎の乞食《こじき》姿だ。おんぼろ[#「おんぼろ」に傍点]を一着に及んで御丁寧に頭陀袋《ずだぶくろ》まで下げているところ、あんまり真に迫って、一同いささか恐縮の態。
動かざること林のごとし。
佐野の声が大きいので、一座がときどきはっ[#「はっ」に傍点]とするほか、斎藤監物なんかは、隅っこに片づけられて丸くなって眠っている無心な新太郎の足の指をいじっては、故郷《くに》に残して来たわが児《こ》のうえでも思うのだろう、かわいくてたまらなそうにひとりほほえんでいる――。
高橋多一郎が、薩摩《さつま》の高崎猪太郎《たかさきいたろう》の手紙を読み上げているのだ。
「近年幕吏|妄動《もうどう》し、かつ君臣の名義大いに混乱致し、はなはだしきは徳川幕府あるを知りて、天皇のあるを知らずに至り候――」
惻々《そくそく》として胸を打つ声。
そこへ守人が帰って来たわけ。
茶のしたくをしていたへらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛と二、三言話をしていると、物音を聞きつけて遊佐銀二郎が立ってきた。
と、台所の軒下、滝《たき》と落ちる雨だれのなかを、黒い影がすうっ[#「すうっ」に傍点]と横ぎるのを守人は見た。さっ[#「さっ」に傍点]と戸をあけて――、
かあっ、ぺっ!
守人が唾《つば》を吐きかけると、影はころぶように生垣《いけがき》の闇黒に消えた。
「何でござるな?」
銀二郎がきいた。守人はぴしゃりと戸を締めた。
「御用心! 手がまわったと見えまするぞ」
「何の」銀二郎は一笑に附した。「犬じゃ、犬じゃ。雨に迷うた宿なし犬じゃ。おそるることはあるまい」
「さよう」
何ごころなく眼を返した守人は、銀二郎の顔が、不純な心配と恐怖にゆがんでいるのをみて取った。
さては此奴《こやつ》め内通でも――?
いやいや、 まさか!
「さよう」と守人がにっこり[#「にっこり」に傍点]して、「だがしかし、その犬も歩けば棒に当たるとか申しましてな」
といった時、篠《しの》突く雨の音を消して、家の周囲《まわり》にどっ[#「どっ」に傍点]と人声が沸き立った。
「しらべの筋あって南町奉行隠密まわり同心|税所邦之助《ざいしょくにのすけ》出張致した。開門、かあいもうーん!」
奥と台所で同時に燈火《ともし》を吹き消した。
漆黒《うるし》の闇。
やけのやん八どうなとなれ
鎧櫃で、どこともなく変な旅をしたあの女。
ようようのことで吃りの殿様と猫侍の屋敷をのがれ出て、だらだら坂をおりてほっ[#「ほっ」に傍点]と一息。
まずよかった。
ここもお江戸の町らしい。
――角の小店で途《みち》を聞いているところへ、背後《うしろ》で多勢の跫音がしたので、振り返ってみると、いま来た坂を五、六人の男がばらばらばら[#「ばらばらばら」に傍点]っと駈けおりてくる。
追っ手だ!
と知るや、女はきっとなった。
同時に振りから腋《わき》の下へ手を差し入れて懐中《ふところ》の小判包みをしっかり押えて、しゃなり、しゃなりと歩き出した。
うまくゆくかどうか、ま、一つとぼけてやれという気。
で、夢のような夜気のこめる往来に立って、女はつ[#「つ」に傍点]と空を仰いだ。白じらと七つのお星さまが光っている。
「まあ、夜分はわりかた冷えるねえ」
早鐘のようにとき[#「とき」に傍点]めく胸から出る声にしては、あっぱれ落ち着いたものだ。ちょいと斜めに小襟を突き上げると、
はあくしゃん!
と色気抜きのくしゃみ。
が、そのときはもう荒くれ男がぐるり[#「ぐるり」に傍点]とあたりを取り巻いて、あとへも先へも動きがとれない。
女はすっかり度胸をきめた。
思い思いにはんぱな服装《なり》をした三下が、めいめい一かどの悪らしい顔つきで、雲助然と通せんぼうをしている。
「やいやい。阿魔《あま》っちょ、どこへ行くんでえ」
坊主頭に腹掛け一つという、山賊の走り使いみたいな玄妙不可思議なのが前へ出て来た。
「手前のからだに用があってな、ちょっくら引っかついで行くからそう思いねえ」
「なあ姐《ねえ》さん、悪いこたいわねえからおとなしく来なよ」
「こうっ! じたばたすれあおっかねえ目にあうばかりだぜ」
「なあに、おいらがおんぶしてってやらあ。ねえお神さん、お嬢さん、何だか知らねえが、あいよ、お頼みしますよ、なんていい声の一つも聞かせてくんねえ。うふっ」
「亀《かめ》っ! われの突ん出る幕じゃあねえ、[#「ねえ、」は底本では「ねえ 」]俺さまがお抱き申して往くんだ」
「うめえことをいうぜ。このふっくら[#「ふっくら」に傍点]したやつを一人で抱いてくなんて理窟《りくつ》はねえ」
「じゃあ、恨みっこねえように坊主持ちだ、坊主もちだ!」
「なにを! 坊主はひとりここにいらあ」
「わあい! わあい!」
「やっちゃえ、やっちゃえ!」
「手取り足とり別の間へ、と出かけべえ」
「おらあ脚を持つ」
「こん畜生! 脚はおいらが先約だ」
どういう量見か、みんな脚部《あし》のほうを受け持ちたがってがやがや[#「がやがや」に傍点]いっている。こうして、文字どおりかついでゆくつもりらしい。
いくら気丈夫でも、女一人に相手はあぶれ[#「あぶれ」に傍点]者が五、六人、どうしてかなう道理はない。
わざとおずおずとあとずさりした女、今にも泣き出しそうな顔で、
「あの、お前さんたち、感違えをしちゃあ困りますよ。あたしゃこの先のお店《たな》のもので、あれ、あそこへ良人《うちの》が迎えに出てるじゃありませんか」
向こうをのぞくようにしたが、もとより人っこひとりいはしない。
「ふむ。いい土性っ骨だぜ」妙に感心して坊主頭を振り立てた奴、「だがね、その手は桑名《くわな》の焼き蛤《はまぐり》だ。なあ、お前《めえ》が今しがたあそこのお邸を抜けて来たてえこたあこちとら[#「こちとら」に傍点]百も、承知なんだ」
女はしゃがんで、はだしの足を隠している。
「四の五のいわずにお供させてもらいてえな」
「えこう、殿様あお待ちかねだぜ」
「じゃあ何かえ」と急に歯切れがよくなった女、そっ[#「そっ」に傍点]と土をつかみながら「お前たちは、あの吃りのお侍さんに頼まれて、わたしを連れもどしに来てくれたとおいいかえ。そうかい、それは御苦労だったねえ」
と、いい終わるが早いか、女の手がすっ[#「すっ」に傍点]と上がって、ぱさっ[#「ぱさっ」に傍点]――物のみごとに眼つぶしをくらった坊主頭、だつ[#「だつ」に傍点]っととび下がって、
「わあっ!」
顔を押えた。女が土をぶつけたのだ。
同時に、二、三人を左右へ投げ飛ばして、女はすきをねらってかけ出した。
口々にののしりさわいで追って来る。
足弱のところ、勝手の知れない町なみだ、とても逃げおおせるわけはない。
「ひーとーごーろーしいーっ!」
とっさの機転に叫んではみたものの、物騒な真夜中のことだから、たとえ聞きつけても雨戸一枚あける人はない。そのうちに、ゆるんでいた帯がずるずると解けて蛇のように地面をひきずる。
そのままで女は走った。
走りながら帯をたぐろうとすると、どしん[#「どしん」に傍点]とからだがうしろへ引かれたように感じて、追っ手の一人が帯の端を踏んだ。
ええ面倒な!
くるくるとまわして帯を残して、また一走りと踏み出したが、押えた前のあぶないのに気がつくと、女はぺたり[#「ぺたり」に傍点]とその場にすわってしまった。
そうして追っ手が駈け寄ったときには、女は蝦《えび》のように、大地にごろりと寝そべっていた。
自棄《やけ》のやん八、どうなとなれ。
女の姿がそういっていた。
くくりのない着物から土の上に蒼白《あおじろ》い膚がこぼれているぐあい、凄艶《せいえん》すぎて妖異な情景。
「洒落《しゃれ》たまねをしやあがって――」
「太え女《あま》だ」
「白え歯を見せるから悪いんだ」
なに、たいして白い歯でもない。真っ黄色な乱杙歯《
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