らぐいば》だ。
「人の面に泥を塗りやがったぜ」
こりゃ全くおおせのとおり。
追いついた連中、ふうふう呼吸《いき》をしててんでで女のからだに手を掛けた。
「それ、やれ!」
「よいと来た!」
「わっしょうい!」
木遣《きや》りでも出そうな騒ぎ。やがて、総がかりで女をかつごうとしていると、そばの闇黒《くらやみ》から、凛《りん》として科白《せりふ》もどきの声が響いた。
「待て。その女に用がある」
今夜はよくよく女に用のある晩だと見える。
これはえれえ手ちげえになったもの
そもそも女が逃げ出したのを知ったとき、吃りの殿様が丹三に含めた計略というのはこうだった。
丹三が、折助部屋に集まっている小博奕《こばくち》打ちをまとめて跡を追う。が、丹三は陰に隠れていて、他の連中だけが女を取り巻く。こうしてあわや[#「あわや」に傍点]と見えるところへ、丹三が通りかかったように見せかけて飛び出して行って、なれ合いの立ちまわりよろしく、とど[#「とど」に傍点]女を助ける。
こうして恩にきせておいて、丹三は女を自分の家へつれて行き改めて殿様へ差し出す――というのだから、丹三としては役不足のあろうはずがない。友だちを取って投げて、女にありがたがられて、きれいな身柄を二、三日預かって、そのうえ殿様からはたんまり[#「たんまり」に傍点]御褒美《ごほうび》をもらう。こんなうまい話はまたとあるまい。
帝釈《たいしゃく》丹三と異名をとった三角の眼をくりくり[#「くりくり」に傍点]させて、丹三が勇躍したのももっとも至極。頼まれた仲間にしたところで、ちょいと女をこづいてから、痛くないようにころがりさえすれあ、殿様が酒代《さかて》を下しおかれるというので、みんな手をたたいて喜んだ。
「丹あにい、お手やわらかに願えやすぜ」
「芝居《しべえ》ってことを忘れねえように。なあ丹さん、頼むぜ」
「おらあ右手をくじいてるんだ。帝釈の、やんわり扱ってくんねえよ」
というわけで、それ[#「それ」に傍点]っとばかりに女を追っかけると、遅れて丹三が、にわかに強くなって、いい気持ちそうにぶらり[#「ぶらり」に傍点]と出かけたのだった。
だから、坊主頭をはじめ投げられ役の一同、実はさっきから、まだか、まだかと丹三の出を待っていたのだ。
そこへ今の声だ。
「待て。その女に用がある」
と筋書きどおりに来たから、おとなしく待つ気で手を控えると、かたわらの暗いところからのっそり[#「のっそり」に傍点]と現われた人影。
通人《つうじん》めいた頭巾なんかかぶりやがって、丹三の野郎、乙《おつ》に片づけやがったなと、まず坊主頭がせいぜいいきり立って突っかかった。
「待てたあ何でえ。この女に用のあるわけはねえ」
「そっちになくともこっちにあるから呼んだのだ」
ようよう! 丹三、なかなかうめえぞ!
ごろつきたち心中いっせいに感心している。
「おや、しゃら臭えことをぬかすぜ」
八百長だと思うから坊主頭が鼻息が荒い。
「用てえのは何だ。さっさといわねえか」
「そこにいる女を貰い受けたいのだ」
いよう! その調子、その調子!
めりはり[#「めりはり」に傍点]が合ってだんだん雲行きが急になる。
連中はもう投げられる心構え。
「何をっ! 女がほしい? へっ、女がほしけりゃ腕で来やあがれ」
「ようし! では、腕で取るからそう思え」
「そう思えが聞いてあきれらあ」
「ならば取って手柄にせよ、だ」
「畳んじまえ、畳んじまえ」
縁日に夕立ちが来たよう、しきりに畳め畳めとどなっている。肝心の女が片隅で見物しているうちにとんとんとんと運んでどっちからともなく手が出る。お約束に従って大立ちまわりの場となった。
はじめから負けるために出張っているんだから世話はない。
ちょいと手がさわるが早いか、どいつもこいつも思い切りよくそっくり[#「そっくり」に傍点]返る。
やっ!――ずでんどう。
ええっ――すってんころり。
まるで柔術《やわら》の乱取りのありさま、一人を中に起きたり倒れたり、誰が誰だかわからないが、景気のいいことこのうえない。なかにこすいやつは、ひとり勝手に尻餅《しりもち》をついて、
「参った!」
いや、このほうは手がかからない。
組んずほぐれつといいたいがてんで組まないのだからしょうがない。取っては投げ、取っては投げ、さながら男は無人の境を往くようにあばれまわる。
ほうられ続けて腰の立たない一同が、首を上げて見ていると、男が女をいたわってはるか下手の町角を曲がって行った。
あとには不平たらたら。
「畜生、さんざ痛え目にあわせやがった」
「帝釈め、女に礼をいわれてることだろうが、礼ならこっちへもらいてえもんだ」
すると、坊主頭が、
「おい、間抜け、これあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると大変なことになったぜ。あれあどうも丹三じゃねえようだ」
「なに? 丹三でねえ? どどうしてだ?」
みんなぴん[#「ぴん」に傍点]となってはね起きた。
「お、おう、何だ、何だ、え? あいつ丹三でねえ?」
「丹三じゃあなかったのか」
「やっ! しまった! 道理で丹三兄にしちゃあ荒過ぎるようだった」
「それに、身長《せい》もすこし高かった」
あとからいろんなことをいっている。
さあ、大事《おおごと》!
こうしちゃいられねえ、すぐにあとを!
とたけり立って駈け出そうとするのを、
「まあ、待て」坊主頭が止めた。「待ちねえってことよ。これから追ってどうする気だ」
「知れた話よ。野郎、たたっ殺してくれる!」
「うふふっ。口だけあでっけえが、あれあお前、どうしてどうして体術《てえじゅつ》の名人だ」
「するてえと、知らずにひっくり返《けえ》っていたのが、結局《けっく》こっちの拾い物かもしれねえな」
「そうよ、そうよ」
「残念だが、これで引き下がるほうが無事らしいぜ」
まるくなってしゃべっている。
「亀《かめ》なんざ小指でころり[#「ころり」に傍点]だ」
「そういうお前も、あんまりほめたざまじゃあなかったぜ」
「なんにしてもまあ、えれえ手違えになったもんよなあ」
「狂言だと思って投げられていたこちとら[#「こちとら」に傍点]こそいい面の皮だ」
「全くだ。こんな御難はねえ」
「おらあ投げられてもいいから、もう一度あの女を見てえ」
「ちえっ! それだけ鼻の下が長けれあ豪気なもんだ。丹三はどうした、丹三は」
「丹三の来ようが遅いから起こったこった」
「丹三はどこにいる? 丹三!」
「丹三あっ! たんざあああうっ!」
「丹三、丹三い!」
「えおう、たんざあい!」
丹三、丹三と丹三を売りに来たようなにぎやかさ。
丹三やい、帝釈やいと呼ばわっていると――、
「おい、ここだ、ここだ、助けてくれ」
という情けない声がして、路傍《みちばた》の大溝《おおどぶ》から帝釈丹三が今やはいあがるところ。
寄ってたかって引き揚げたが、その臭いこと、一同あっ[#「あっ」に傍点]と鼻をつまんだ。
いい若い者がどぶ[#「どぶ」に傍点]泥まみれ、名前のとおりに帝釈さまの金仏そっくり。
「どうした、丹兄い」
「どうもこうもねえ。背後《うしろ》からかぶり[#「かぶり」に傍点]ついたら振り飛ばされてこの始末よ」
「おうやおや、お前も投げられた組か」
「自慢じゃねえが、真先にやられた。俺が来たときあちょうど始まるところだったから、おのれってんで武者振り――」
「おいおい、わかったってことよ。そう身振りをしちゃあ泥が飛んでしようがねえ」
「そうか。どっちへ行った、女は?」
「野郎といっしょにあっちへ行った」
「あっちへ行ったといって、立って見てるやつもねえもんだ。追っかけねえのかよ。じれってえな、こいつら」
やつ当たりの丹三について、一丁先の曲がり角までぞろぞろ[#「ぞろぞろ」に傍点]行ってみたが、男も女もとうの昔に姿を消している。
「おらあ帰って、殿様に合わす顔がねえ」
丹三が泣き出しそう。
「なあにお前、案ずるこたあねえさ。そのまんま持って行くがいいや、どうも裏表なしの塗りつぶしと来てらあ」
ひどいことをいうやつもある。
頭巾で包んでいたから相手の顔はわからないが、明らかに武士《さむらい》ではない。
かといって、あんなに強い町人があろうとも思われぬ。
男を売るのが商売の侠客《きょうかく》か。
とにかく、網の中の魚を大海に逸したも同様で、今さらこぼ[#「こぼ」に傍点]しても六日のあやめだ。
美人をかつぐ代わりに、臭気ふんぷんたる真っ黒くろ助の帝釈丹三を遠巻きにした一行が、すごすごともとの坂へかかったころ。
東天紅。
と一声、早い一番|鶏《どり》の鳴く音。
お江戸の朝は、まず薄紫の空から明けはじめる。
三味線堀《しゃみせんぼり》の宗匠|手枕舎里好《たまくらやりこう》
ここは下谷《したや》、三味線堀《しゃみせんぼり》。
めっかち長屋の一|棟《むね》、狂歌師|手枕舎里好《たまくらやりこう》と名乗る男の家である。
よほどぐっすり眠ったとみえて、女が眼をさましたときは、一間きりない部屋に、もうだいぶ長い陽脚がさし込んで、勝手もとで主人《あるじ》の里好の味噌《みそ》をする音がしていた。
寝過ごしたのが気恥ずかしくて、いそいで、起きようとすると、夢で泣いたものか、枕紙がひんやり[#「ひんやり」に傍点]湿っている。きのうからのことが思い出されて、おびえたこころは泪《なみだ》っぽくなっていた。
手早く床をたたんで身じまいをした。敷き蒲団の下に入れておいた金包みを肌《はだ》へ巻くには、音のしないように気をつけなければならなかった。もうどうしても人を信じられない気もちになっていた。
昨夜《ゆうべ》助けられた男に伴なわれて来て、女はここに泊まったのである。
古びてもいるし、狭いも狭いが、なんという取り散らした部屋の中。
皿小鉢《さらこばち》が衣類や襦袢《じゅばん》と同居して、徳利《とくり》のそばには足袋《たび》がころがり、五郎八|茶碗《ぢゃわん》に火吹き竹が載っかっているかと思うと、はいふきに渋団扇《しぶうちわ》がささっている騒ぎ。おまけにほこりで真っ白だ。
男やもめに蛆《うじ》がわく。
家具といっては、洪水《おおみず》に流れ寄ったような長火鉢が一個あるきり、壁のすきまから月が拝めそうな風流ぶり。
見ると、その長火鉢の向こう側に座蒲団が二つならべて、小掻巻《こかいまき》が丸めてある。
ははあ、里好宗匠、ゆうべは天にも地にもたった一組の夜着を女にとられて、ここの配所に御寝なすったものとみえる。
なかなかの堅人《かたじん》、これなら当分いっしょにいても、さして間違いはあるまい。
と思うと、女は急に気やすになった。髪をかき上げて台所の障子をあけた。
「おはようございます」
「や、これは嫁御寮、お眼ざめかな、わっはっはっは、いや、おはよう」
あから顔の四十男、でっぷりふとって、狂歌師よりも質屋のおやじという人がら。不器用な手つきでお米をといでいる。
「どうかね、よくお休みになれたかな」
「はい。どうも昨晩はいろいろとお世話様になりまして、ありがとうございます。おかげ様で――」
「おっと! 礼には及びません。わしもまだ御挨拶《ごあいさつ》をしない。ま、そんなかたっ苦しいことは抜きにしましょうや。さ、顔を洗ったり、顔を洗ったり。井戸かね。長屋の裏にある――お! お前さん、気にさわったらごめんなさいよ。何かいわくがありそうだからきくんだが、戸外《そと》へ出てもいいからだかね? なんならわしがくんで来てやるが」
「はあ、いえ、あの、かまいません」
渡る世間に鬼ばかりもいない。
何から何まで届く人、伯父さんとでも呼びかけたいような――。
釣瓶《つるべ》うつしに冷たい水で顔をしめしながら、女は、幾年にもなくふ[#「ふ」に傍点]と甘い幼《おさな》ごころに返った。
誰かの胸に泣いても泣いても泣き足りないのはこのはかなさ。
思えば、津賀閑山の店からこの家へ来るまで、なんというめまぐるしい運
前へ
次へ
全24ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング