命の手にもてあそばれたことであろう。
 が、ここが当座のねぐらという気がする。
 袖すりあうも他生の縁、この人とならば膝をつき合わしていても安心だ。
 ――添われまいとて苦にせまいもの、命ありゃこそ花も咲く。
 どうせ恋しいお方と住めない以上は、広い浮世に宿がないのも同然、誰と暮らそうとおんなじことで、大事なものだけは大事にして、まあ、しばらくここに腰をすえましょう。
 井戸をのぞいて水鏡。
 気のせいか、一昼夜の心労にげっそり[#「げっそり」に傍点]痩せて見える。
 女はさびしくほほえんで空を見上げた。
 からりと晴れ渡った初夏の朝。
 松平|下総守《しもうさのかみ》様の高塀《たかべい》が三味線堀のさざなみに揺れて、夜露に翼を光らせたぬれ燕が、つうっ、ついと白い腹をひらめかせている。
 女が家へはいると、里好先生の心づくしの、貧しい朝飯が待っていた。
 こう差し向かいで猫板の上を突ついているのだが、里好師がすっかり解脱《げだつ》しているだけに、双方すこしも艶《つや》っぽい気は起こらない。
 それどころか、熱い御飯に情けを感じて、女はともすればほろり[#「ほろり」に傍点]と来そう。

 やがて番茶をすすりながら、そそくさと楊枝《ようじ》を使って、里好がちょっと改まった。
「昨夜《ゆうべ》はひどく疲れていなすったようだから、そのまま寝かして進ぜたが、お前さんはどこの人かね?」
 よくきかれる問いである。女はさっそく用意の嘘《うそ》を出した。
「はあ。浅草のお福の茶屋、うれし野のおきんと申す者でございます」
 御免安のことばがこのさい大いに役に立ったわけ。
「へえい!」と里好はすっとんきょうな声を出した。「今評判の別嬪《べっぴん》嬉し野のおきんさんてなあお前さんのことかえ。いや、知らぬこととはいいながら数々の無礼、このとおりおわびを、はっはっは」
「あれ、おなぶりなすってはいやでございます。別嬪などと、ほほほほ」
「いや別嬪だ、誰が何といっても別嬪だ。ふうむ、してまた、その嬉し野のおきんさんがどうして昨夜のようなことに?」
「はい」と口ごもったが、一つ嘘をつけばあとはわけはない。
 神田の親類に用たしに行った帰り、途に迷って悪者に襲われているところへ、通りすがりのあなた様に助けられまして――と女は鎧櫃のことなぞおくびにも出さずに、すらすらといってのけた。そして、
「あの、あそこはどこでござんしたろうねえ」
「明神下の四つ角だったよ」女は低声《こごえ》につぶやいた。
「するとあの家は、湯島妻恋坂の上あたりかしら?」
 里好が聞きとがめた。
「あの家たあどの家だね」
「いえね」女はあわてた。「その、ただ空家《あきや》でござんす」
「お前さん、何かえ」と里好は用事でも思いだしたように立ち上がって、「これから浅草《おくやま》へ帰る気かね。わしゃもう米櫃がからだから一まわりして友だちをいたぶ[#「いたぶ」に傍点]って来るが」
「いえ、あの、自家《うち》へ帰ってもつらいことばかしでござんすから、もしお差しつかえないようでしたら、しばらくお宅へ置いてくださるわけには参りませんでしょうかねえ」
 ここを先途と送る秋波は、里好には通じない。先生さっぱりとしたものだ。
「かまわないとも。独身者《ひとりもの》ののん気な世帯だ。お前さんさえいたいなら、いつまででもいなさるがいい。だが待てよ、この節はばかに人別がきびしくてな、大家のほうへは何と届けておこう?」
「さあ――妹とでも」
「冗談じゃない。わしみたいな唐茄子《とうなす》に、そんなきれいな妹があってたまるもんか。が、まあ、そこは何とかつくろって妹ということに口を合わせよう。はははは。では、わしは出かけるからね、寝るなと起きるなと気ままにして留守を頼みますよ。なに、夕方までには帰ります」
 いいながら里好、すっぱり脱いで着かえにかかった。
 手を添えに立った女は、その牛のようにたくましい体格に驚いてしまった。
 狂歌の先生には必要のない、隆々《りゅうりゅう》たる肉の瘤《こぶ》、しかも鍛えのあとが見えている。
「面白かったな昨夜は」里好腕をさすってひとり悦に入っている。「木っ葉野郎どもを投げ飛ばしたが、しかし、考えてみると、めっぽう弱いやつがそろっていたようだ」
 といささか不審そうな顔。そりゃそのはず。むこうは自力でころんだんだ。が、たとえ真気《ほんき》にかかっても、このからだには歯が立つまい。
 これが道楽であろう。服装《なり》だけはりゅう[#「りゅう」に傍点]として凝ったもの。蔵前《くらまえ》の旦那《だんな》みたいに気取り返って、雪駄《せった》を突っかけて出て行った。
「行ってらっしゃいまし」
 と送り出した自称おきん、自分の何者であるかを棚《たな》へ上げて、
「はて、あのお方は何だろうねえ。ときどきこわあい[#「こわあい」に傍点]眼をするようだが――」
 考えていたって始まらない。
 まあ、いいさね。
 そのうちにはわかるだろうよ。
 ひとり者の乱雑さは、いつも女性《にょしょう》を親しい心持ちに微笑させるものだ。
 姐《ねえ》さんかぶりに女房々々した女、やがてかいがいしくばたばた[#「ばたばた」に傍点]そこらの掃除《そうじ》をはじめた。
「まあ、たいそうなほこりだこと!」
 押入れをあけると洗濯物《せんたくもの》の山。
「ほほほほ、よくもこうためたものだねえ」
 べったりすわってくすくす[#「くすくす」に傍点]笑っているうちに、女はふっ[#「ふっ」に傍点]とさびしくなった。これが、思う殿御との新世帯なら――。
 三輪《みのわ》あたりに住まいして、わたしは内で針仕事。
 丸髷《まるまげ》姿の自分を描いて、女は小娘のように、ぽうっと頬をあからめた。
 壁に三味線がかかっている。久しぶりの爪《つま》びき。
「恋すちょう身は浮舟のやる瀬なさ、世を宇治川の網代木《あじろぎ》や、水にまかせているわいな」
 夢みるような瞳《め》、横ずわりの膝をくずして、女は、いつまでもうっとり[#「うっとり」に傍点]とひいていた。
 すべての憂《う》さが忍び音の唄《うた》と糸とに溶けて行く。
 女の頬に、涙の糸が白く光っていた。
 そうしたまま、夕風の立つのも知らずにいた。
 突然、戸外《おもて》にあわただしい跫音がして、がらりと格子があいた。一拍子に飛び込んで来た異様な男。
 盲目縞《めくらじま》の長袢纒《ながはんてん》、首に豆絞りを結んでいる。
 よく見れば、主人《あるじ》、手枕舎里好ではないか!
 どこで着かえたものか、まるで別人だ。それが、
「お、おきんさん!」
 と血相を変えて駈け上がったが、とみには口もきけずに縦横無尽に手まねをしている。
 女はうろうろ[#「うろうろ」に傍点]するばかり。
 このとき、三味線堀へ出る韓信橋《かんしんばし》を、昌平橋《しようへいばし》から掏摸《すり》を追っかけて来たいろは屋文次が、息を切らして走っていた。
 渡ればこの家の前。
「野郎、どうもこのへんで消えたようだて――はあてね」
 ――と、そこの格子が文次の眼にとまった。


    御用帳


   お人違いでござんしょう

「野郎、どうもこのへんで消えたようだて――はあてね」
 妻恋坂影屋敷の鎧櫃の底で拾った小判を、神田の昌平橋ですり取られたいろは屋文次、掏摸を追って三味線堀までくると、今まで眼の先を走っていた盲目縞長袢纒に首に豆絞りを結んだ当の男が、ふっ[#「ふっ」に傍点]と見えなくなった。
 おや! 立ちどまると、めっかち長屋の前だ。たった今人を呑んだらしい格子戸が、さあらぬ態にしまってる。
「ふうむ。鼠《ねづみ》の穴はこれだな」
 眼をとめた文次、二、三軒行き過ぎると井戸があって、山の神がひとり、何かせっせ[#「せっせ」に傍点]と洗濯をしている。文次は丁寧《ていねい》に腰をかがめた。
「ちょいとうかがいますが、この三軒目はどなたのお住まいで?」
「三軒目かえ」おかみは振り返りもしない。「里好さんてってね。狂歌とかなんとかやる人だとさ」
「へえい! 狂歌師の里好さん――?」
「ああ。手枕舎っていうんだよ」
 手枕舎里好――聞いたことのねえ名だ。いずれ一皮むけばれっき[#「れっき」に傍点]とした御仁には相違なかろうが、それにしても化けたもんだ。世の中は手枕で渡るのが利口とは、なるほどこれあ御託宣だわえ――文次はちょっと吹き出したかったが、しかし考えてみると、たといはずみにもせよ、浮世小路の親分として人に知られた文次の懐中物を抜くんだから、この里好宗匠、よほどの腕ききとみえる。
 ことにあの小判、あれはこのさい、文次にとっては何者にも代えがたい手がかりだ――と思うと、文次も笑っている場合ではない。すっ[#「すっ」に傍点]とお神のそばへ寄って行って、
「おう、出入口はあの一つか」
 と、急に変わったこの番頭ふうの男の調子に、おかみは眼をまるくしてどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]していた。
 家の中では里好と女がてんてこまい[#「てんてこまい」に傍点]を演じている。
 今朝がたあんなにめかして出て行った里好が、いま駈け込んで来たのを見ると、なんのためにどこで着かえたものか、松坂木綿《まつざかもめん》のよれよれ[#「よれよれ」に傍点]になったやつへ煮しめたような豆しぼりというやくざ[#「やくざ」に傍点]な風体《なり》をしているのだから、女が面くらったのもあたりまえで、立て膝のまま、
「あ! お前さん!」
 ぽかんとして見あげる顔の上へ、里好は大あわてにあわてて、手早く脱ぎ捨てた長袢纒をふわりと掛けてしまった。
「あれさ。何をするの」
 女は着物の下でもがいたが、里好はそれどころじゃない。顔色を変えて騒いでいる。
「いや、勘弁々々、すまねえが、そいつにこの三尺と手ぬぐい、丸めて押入れへ押し込んでください。わたしは病人だ」
 いいながら、はや蒲団を引き出して敷きかける。女はびっくりして立ち上がった。
「あの、どこか、お加減でも――」
「なに、あとでわかる。ただね、わしは病人なのだ。いいかえ、病人だ、病人だ」と頭からすっぽり[#「すっぽり」に傍点]蒲団をかむって、
「後月《あとげつ》から腰が立たねえで寝ているというこころ。誰が来ても会わねえぜ。あんたは女房の役、な、看病やつれを見せてやんな。さ、今にも来る。頼みましたよ」
 一息にしゃべって黙りこむ、やがて、低くかすかにうめく声――どうもお手に入ったものだ。
 はっ[#「はっ」に傍点]とした女。
 もしかするとこの人はお役人にでもつけられたのじゃあないかしら?
 気がつくと他人事《ひとごと》ではない。高麗《こま》ねずみのようにきりきり[#「きりきり」に傍点]舞いをして、薬罐《やかん》、水差し、湯呑みなど病床の小道具一式を枕もとへ運んだのちそこらの物を押し入れへ投げ込んで、まずこれでよし――さあいつでも来るがいいよと女が長火鉢の前へ横ずわりにくずれたとき、がらり格子があいて、
「ごめんなさい」
 いろは屋文次だ。
「はい、どなた?」
 と女はゆったりした声、長煙管《ながぎせる》のけむりをぽっかりと吹いている。
「あの、里好先生のお宅はこちらでしょうか」
「はあ、さようでございます。どちら様から?」
 鷹揚《おうよう》に首をまわした女、土間の文次とぱったり顔が合った。とたんに「や! この女は!」という色が文次の表情《かお》にゆらいだが、たちまち追従《ついしょう》笑いとともに、文次は米つき飛蝗《ばった》のように二、三度首を縮めておじぎをした。
「いますかえ、これ?」
 となれなれしくおや指を出して見せる。
「はあいるにはいますが――」女は迷った。
 この人はだいぶ親しい仲とみえる。
 上げても差しつかえないんだよ、きっと。
 が、「誰が来ても」といった里好のことばを思い出すと、女はぎくり[#「ぎくり」に傍点]として文次へ向き直った。「いるにはいますが」と、にっこり[#「にっこり」に傍点]して、「ご存じのとおり一月ほどからだを悪くして寝たきりなんでござんすよ」
「だが、いまそこか
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