ともに、その中に連れの里好をも見失ってしまったお蔦は、誰とも話さず、どの袋とも語らず、黙々として立ち、歩き、座し、寝て、日を送っていた。
 誰が誰やらわからぬこの井戸の底の世界は、世を隠れる者、身を秘《ひ》める人にとりては、まことに何より安息所、休息所といわなければならない。それかあらぬか、新たにはいって来る者はあっても、出て行くものはとんとないようである。地の底とは思われない広い部屋に、大勢の黒い塊《かたまり》が累々《るいるい》と、また蠢々《しゅんしゅん》と、動きまわり、かたまり合っているところ、実に浮世離れのしたながめであった。
 何者の力、何者の仕事であろう。
 こうして、人を集め、寝食を与えて、幾日でも、幾月でも、泊め置くとは?
 何のため? 因縁《いわれ》のある人を隠まうため。もとよりそれに相違はなかろうが、ただそれだけか。それにしては物好き過ぎる。酔興過ぎる。といわなければならない。
 一日おき、時としては二日おきぐらいに、この井戸の底で、不思議な巡視が行なわれるのだ。奥まった垂幕《たれまく》をはじいて、一同の黒い袋の代わりに、同じ作りの白い袋を着た、背の高い人物が現われるとうしろに二、三の黒い袋を従えて、それが広間中の黒い袋のあいだを縫って歩く。この巡視が始まると、今まで寝そべっていた者は起き、歩いている者は立ちどまって、尊敬をこめた態度で迎える。
 いっさい無言のうちに行なわれる。
 そして。
 その白い袋が、確かにでたらめと思われる態度で、そこらの黒い袋を二、三人ずつ指摘する。すると、指された者は、立って一行に従って、その奥の垂幕に消えて行くのだが、それらの人々が再びここへ帰って来るのかどうか。出るにも、はいるにも同じ黒い袋だから少しもわからない。
 しかしその白い袋と、奥の垂幕のかげに、何事かこの集会所の秘密を解くべき鍵《かぎ》が潜んでいるであろうことは、お蔦の早くも見てとったところだった。
 ある夜だった。食事が済んでまもなく、隣の黒い袋が、そっとお蔦に、にじり寄ってささやいた。
「今夜あたり始まりますぜ」
 と、そのことばが終わらないうちに、奥の幕が左右にさっ[#「さっ」に傍点]と開いて、いつもの背の高い白い袋がゆうゆうと進み出た。そして、途中、二人ばかり指さした後、お蔦の前まで来ると、その白い袋がぴたりと止まってお蔦は自分に向けられている強い視線をありありと意識した。はっ[#「はっ」に傍点]と思って見返すと、白い布に包まれた手が、すうっ[#「すうっ」に傍点]と上がって自分を指さしている。とたんに、うしろに、
「たて!」
 という声がして、同時にお蔦は軽く背中をけられるのを感じた。
 たち上がる。
 そのまま、白い袋は引っ込んで行く。お蔦の他に二人、選ばれた黒い袋がそれに続いた。
 垂幕をくぐると胸突き上がりの階段になっていて、上は壁から天井から床まで、黒塗りに塗った小さな部屋だった。黒檀《こくたん》であろう、黒い木で作った脚長《あしなが》の机と腰掛けが置いてあるのだが、引き上げられた三人は、掛ける気もせずに、眼白押しに壁ぎわに立った。机を隔てて白い袋がすわる。
 鷹《たか》のような眼が壁にならんだ六つの眼を見渡すと、白い袋に扈従《こじゅう》している二、三の黒い袋の一つが、恐ろしいしわがれ声で口を切った。
「今夜は、お頭から用がある。知ってるかもしれねえが、ここにいらっしゃる白い袋の御方が、烏羽玉組の頭なんだ。今、お話がある」
 と、その声である。これを忘れてどうしよう? 鎧櫃から出されて気絶したまねをしたときに、背の高い侍といっしょに、自分をあらためたあのじゃらじゃら[#「じゃらじゃら」に傍点]声の猫侍ではないか。
 いうまでもなく内藤伊織。
 と、するとその白い袋の中に納まっているのは妻恋坂の殿様として、明るい世界では旗本で通っている饗庭亮三郎その人ではあるまいか。
 どうなることか――どうなっても、ままよ、驚くことはないとお蔦が覚悟をきめたとき、低い含み声が、白い袋をもれて出た。
「かねて知ってのことではあろうと思うが」静かな声である。
「今江戸に出没して、幕吏を始め、町方の者を悩ましている烏羽玉組の根拠は、お前たちが今までおったこの底の会所じゃ、いったい世の中のことはすべて報酬附きで、一を与えれば一を取る。二を授かった者は二を捧げるつもりでおらねばならぬ。
 と、いうたからとて、わしは何も、今までお前たちに、寝食を与え、休養させておいたからといって、この仕事を押しつけるわけではないが、お前たちにしてみれば、たとい、一日でも、いわば、世話になった以上は、少しは当方のいい分も聞かねばならぬ心持ちがあるであろうと思う。そこさえわかっておれば、わしらが何をいい出そうと、喜んでやってくれるはずだ」
 ちょっとことばが切れると、気がつく先にお蔦は、他の二人といっしょに、軽く頭を下げて、同意の意を表わしていた。
 机の向こうで白い袋を中心に、しばらく相談があった後、内藤伊織の声で、
「日本橋浮世小路、いろは寿司方――いろは屋文次、此奴《こやつ》ですな。今夜は一つここへ向けましょう」
 と、いうと、白い袋がうなずくのを待って、伊織は三人へ向き直って続ける。
「俺らは、手前《てめえ》らの正体なんか知りたくもねえが、その風態《なり》では、いくら夜中でも、江戸の町あ歩けねえから、いいか、ここを出たら庭で三人いっしょに袋を脱いで、桜の木へ掛けて行くんだ。
 ――行く先は今いったすしや。今夜は、盗って来る物は何もねえ。人間一匹の命だけだ。いろは屋文次という、此奴は岡っ引きだが、こうるせえ野郎でな。いつぞやの晩は、俺と、ここにいるもう一人が、すんでのことで、からめられる所だった。まあ、その返報ってわけでもねえが、あんな野郎を生かしといちゃあ、この先どんな邪魔をするかしれやしねえ。
 で、これから、手前たち三人が出かけて行って、そのいろは屋を殺《ばら》すんだが、必ず首を持って来いよ。わかったら早いがいい。さっそく出かけろ」
 と、他の一人に合図をすると、そいつが先に立って歩き出す。お蔦を始め三つの袋がそれに続いたとき、うしろで、
「御苦労だな。ぬからずやって来てくれ」
 と、いう饗庭の声がした。
 部屋を出ると長い廊下。角に金網行燈《かなあみあんどん》が一つ、ぼんやりとあたりを照らしているほか、人気のない饗庭家の裏、すなわち空家の影屋敷である。
 黒い袋をかぶった帝釈丹三に連れられた三人が、押し出されるように影屋敷の裏木戸を出ると、月のない外は墨を流したように暗い。
「庭の桜の木へ袋を脱いで掛けて行け」
 といった伊織のことばを思い出して、三人は立ち止まって袋を脱いだ。三つをまとめて、その庭の桜の下枝へ掛ける。
 いかに暗い夜でも空には明りがある。それでお蔦の姿を見て驚いたものか、今、袋を脱いだ一人が叫んだ。
「やや女ではないか」
 いわれてお蔦、暗黒を透かして見ると、守人を恋する前、両国に世帯をもって、子までなしたことのある水戸浪人の遊佐銀二郎!
「お! あなたは!」
「や! そちはお蔦。――」
 かけ寄ろうとすると、もう一人の男が、あいだに立った。
「よう! はいるもいっしょなら、出るもいっしょか。不思議な御縁だね」
 手枕舎里好である。

   流れゆく世の力

 障子に映る日ざしが、だんだん薄くなって、軒の影がはっ[#「はっ」に傍点]と思うまに、もう驚くほど下がっている。
 早い落日だ。
 蒲団《ふとん》から顔を出して、守人は障子の影を見ながら、外部の世界を想像している。下駄《げた》の音や人声が寝ている下の横町を流れて行って、車の音や、女たちの声、さすがに親しい下町の夕ぐれである。寝ている身にとって、音が何を意味し、音だけですべての動きが察しられるのが、守人には涙ぐましくまたほほえみたい気持ちだった。
 こうしているまも、同志たちは、本所割り下水の方来居に老主玄鶯院を囲んで大老要撃の画策を進めていることであろう――消息を絶ったあの女、惜しいところを逃がした遊佐銀二郎――あれからのこと、今後のこと、思えば一つとして気にならざるはない。
 が、人にきいても何も話してはくれない。文次も安兵衛も笑っているばかりで、何一つ、教えてくれようとはしないのだ。――。
 守人が障子の桟《さん》をはう隣の物干竿《ものほしざお》の影を、ぼんやりと見ていると、とんとん[#「とんとん」に傍点]と梯子段を踏み上がって来る足音。
 がらり[#「がらり」に傍点]襖《ふすま》があくと、いろは屋文次だ。
「どうですい。お茶がはいりましたが」
 自ら茶盆を持って来てすすめてくれる。守人は床の上へ起き上がって顔をしかめた。動くとまだ肩口の傷がいたむのだ。
「まだ傷が痛みますか」
「なに、大したこともござらぬ。重々のお心尽くしかたじけのうござる」
 ぽつり[#「ぽつり」に傍点]と切るようにいって二人は無言、文次の茶をすする音がのどかに聞こえた。
 ――あの夜。
 卑怯な遊佐銀二郎のために、肩へ斬り附けられた守人は、安兵衛に助けられて、銀二郎が影屋敷へはいって行った後、文次の心尽くしで、この日本橋浮世小路の文次の家、いろは寿司の二階へかつぎ込まれたのだった。
 同時に心をこめた文次の介抱が始まった。近所の外科医が招かれて、金創《きんそう》の手当てをする。食事から寝起き、文次の親切は親身も及ばないほどだった。若くして巷《ちまた》に浪々する篁守人、人の情けに泣かされたのはこのときだった。
「彼奴《あいつ》あ死に花を使う帳本人なんだ。今までだって、お役人を始め公儀の肩を持つ方々、町方の岡っ引きなど、何人|彼奴《あいつ》の手にかかって、嗜人草のために生命《いのち》を落としたかしれやしねえ。ねえ、親分、なおりしだい引っくくって恐れながらと突ん出すおつもりでがしょう。そうすれゃまた一つ、いろは屋の親分に箔《はく》が附こうというものさ」
 御免安兵衛は文次の顔を見るたびに、こんなことを言い言いしていたが、文次は、じろり[#「じろり」に傍点]と安をにらんで守人のこととなると黙っていた。そして、安兵衛をはじめ姉のおこよにも堅くいい含めて、二階に得体の知れない浪人の怪我人がいることなどは、口外はもちろん態度《そぶり》にも見せないようにさせていた。一度などは夜ふけてから、いきなり、
「文次、いるか、ちょっと急な用で、通りがかりに、寄ってみた。方来居のほう、うばたま組のさぐり、諸事、その後はどうじゃな」
 こういって思いがけなく同心税所邦之助が乗り込んで来たとき、文次は実に、薄氷を踏む思いだった。
 いつも、こういう上役は二階へ招じ上げて対談することになっているのに、その夜に限って階下《した》で話をすることが、何らかで相手を怪しませはしないかと、文次の心配は大変なものだった。二階の守人が寝返りでもして、みしり[#「みしり」に傍点]と音がすると、邦之助が天井をにらむようにする。そのたびに文次は命の縮まる思いをした。
 ではなぜ、こんな思いをしてまで岡っ引きたるいろは屋文次が、江戸中の御用の者が、草の根を分けて探している当の死に花の下手人、公儀へ弓引く不逞《ふてい》浪士篁守人をかばわなければならなかったか。
 それは文次自身にも説明のつかない心持ちだった。
 が、文次の眼には、守人が、そして守人の所業が、守人一人としては映らないのだ。そのかげにある大きな力、人力ではどうすることもできぬ時代の流れといったようなものがあるのをひしひしと感ずることができる。
「おいたわしい。このお方は御自分を犠牲にして、何かしらもっと[#「もっと」に傍点]大きなもの、もっと正しいもの、もっと明るいもののために、働いておらるる、それをお邪魔だてしようとする自分は、取りも直さず古いものの力によって動かされているのではないかしら。――こいつあ一つ考えねばならぬ」
 こう思ったとき、岡っ引きとしての文次は死んで、新しい侠児《きょうじ》、いろは屋文次が生まれたのだった。
 が、守人の心には文次の真意は
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