も、よく見ると、その全部が、その一人ひとりが、世にも奇怪な服装をしているのだ。いや、服装というのは当たらぬ。これは服装ではなくて袋、そうだ、単なる黒い袋といったほうが妥当かもしれない。
こころみに、手近の一人をとって観察するに、頭から足の爪先《つまさき》まで、一枚の黒い布に包まれているのだ。手も脚《あし》も黒いだぶだぶの袋だ。
つまり、頭から四肢、胴体といったぐあいに、人間の形にできている黒衣の袋、それへ人間がはいって、手首と足首とで胴体を締めているので、おまけに手には黒の手ぶくろ、足には足袋《たび》ようのものをはいていて、頭には袋に作りつけの頭巾《ずきん》をかぶっているから、外部《そと》から見えているのは、両の眼がのぞいているだけだ。どこからどこまで黒いぶくぶく[#「ぶくぶく」に傍点]の袋が歩きまわっているとしか見えない。
なるほど、こうしていれば、たとい何人集まろうと、どこの誰だか、いや、男だか、女だか少年だか老人だか、お互いにさえいっさいわからぬわけである。異様といおうか怪絶といおうか、ただもう妖《あや》しいながめであった。
この同じ服装《なり》の人物が無慮三百人もうろついているのだ。
名山の本堂のような、お城の評定の間のような、見渡す限りの広やかな部屋である。四方の壁は丸太で組み上げて、天井は荒板張りの籠《かご》編み、水気をいとってところどころに粘土《ねんど》が塗りつめてある。床には筵《むしろ》が何枚も敷き詰めているとみえて、誰が歩いても跫音《あしおと》がしない。
あちこちに夜具の山が見えるのは、この連中が寝るとき用いるものであろう。おぼつかない蝋燭の光が全体をかすかに、悪夢のように照らし出しているのだ。
どこだろう、いったい?
いうまでもない。江戸中の大悪党の寄合い所といって、手枕舎里好がお蔦を連れ込んだ、あの妖異きわまる姿見の井戸である。
去る者は追わず、来る者は拒まず――これが姿見井戸の金科玉条であった。士農工商のいずれを問わず、また、いかなる罪を犯したものであろうとも、あるいは事実は綺麗なからだであろうとも、何でもいい、誰でもいい、はいって来る者にはいっさいの休安と保護とを与えて、出て行くまでとめておくのが、この、浮世とは関係《かかわり》のない地下の娑婆《しゃば》であった。
すでに、井戸へはいってくるだけの秘密を知って来る以上、それだけを一個の保証と見て、文句なしにはいることを許して差しつかえないわけだが、出て行った者の口からもれようも知れぬ。しかし、この点は実に看視が行き届いていて、訴人はもとより、すこしでも井戸のことを口外しようとするものは、いつどこからともなく襲ってくる不慮の死によって、永遠にその口をとざされてしまうのが常だった。
で、来る者は来り、去る者は去って、無言に沈み、暗黒に生きながら、夜も昼もない井底の生活はつづけられてゆく。
誰が誰やらわからない。
人殺し凶状《きょうじょう》もいよう。博奕《ばくち》喧嘩《けんか》で江戸構えになっているやつもいるかもしれない。また、このごろの物やかましい世の中だ、幕吏につけねらわれる諸藩の浪士も、入りこんでいないとは誰がいい得る?
だが、いっさいわからない。いっせいに黒い袋をかぶって黙々として微動し、うごめいているばかり――もし、ここへ御用の者でも来て片っ端からその頭巾をはぎ、顔をむき[#「むき」に傍点]出しにしてならべたならば、何年、何十年来のお尋ね者を発見し、思わぬ人物を見いだし、これは? とのけ[#「のけ」に傍点]ぞるようなことが起こるかもしれない。
それよりも、互いにはじめて見る顔の中には、子は父を、姉は弟を発見して、どんな人間の悲喜が交錯することであろうか? 仇敵《かたき》同士もいよう。別れた恋人も潜《ひそ》んでいるやもしれぬ。めいめいに秘めためいめいの半生、それが何であろうと、この井底の大部屋では、いっさいが黒である。一色の黒である。
互いに識らぬ三百の黒法師のむれ。
このなかに誰がいることか――それはわからないが、ただ、二人の人間が紛れこんでいることは確かだ。
人魚のお蔦と手枕舎里好。
が、それも今では、同じ装《つく》りの多人数に呑まれて、二人は離れ離れになっている。
姿見の井戸――これはそもそも何であろう? どうして人々はここへ集まってくるのか? いかにして井戸の底へはいりこむのか? 制服のような黒い袋はいったいどこから来るのか? 何のための宿泊か? 集合か?
これが、ここへ来て数日、お蔦のこころをとらえた疑問であった。と、そのすべてが自ずと解かれる期《とき》が来た。
白衣《びゃくい》――それは白い袋の謎《なぞ》である。
誰が誰やらわからない
それこそ烏羽玉《うばたま》の夜だった。
人魚のお蔦が手枕舎里好に伴われて、三味線堀の家を出てから、黙って里好について行くと、里好はあれから、神田明神下へ出て、深夜の妻恋坂を上って行った。
この上の家にはお蔦にとっていやな思い出がある。神田連雀町の閑山の家から、鎧櫃にはいって出て、飯たき久七の間違いで、届けられた饗庭の影屋敷、そこでの恐ろしい記憶は、まだお蔦の心にからんでいた。
で、二、三軒先を行く里好にきいてみた。
「あの、どこへ行くんでございましょう? その姿見の井戸というのはいったいどこなんでしょうか?」
が、里好はそれには答えず、星屑のこぼれるような空を仰いで、ただ坂を上る足を早めた。
お蔦は軽い不安にとらわれざるを得なかったが、今となってはひくにもひけないし、この里好という人についてさえ行けばたいした心配はないような気がする。仮にまたあの家へ行くにしても、何か機械《からくり》のありそうな影屋敷の内部《なか》をのぞいて見ることも、何となくお蔦の好奇心をそそのかすのだった。
里好が振り返った。
「誰が誰だかわからんのが姿見の井戸の底のみそ[#「みそ」に傍点]なんだから、あんたも女ということを気づかれんように、なるたけ物をいわずに、いうときには太い声を出して、できるだけ活溌《かっぱつ》にふるまいなさい。なに、みんな脛《すね》に傷もつ連中ばかりだ。たいしたことはない」
そのうちに坂を上りきると、立売坂の中腹に、饗庭家と同じ造りの影屋敷の門が見える。そこまで行くと、里好はまたお蔦を顧みて、
「ここだ」
と、一言。
どんどん中へはいって行く里好につづいて、お蔦も門をくぐりながら、この家なら一度来たことがある。実はここから逃げ出したところを追っかけられて、お前さんに助けられたのだと里好に話したかったが、その暇もなかったし、また彼女の中の用心深い何物かが、いい出そうとする彼女の口を、ことばにならない先に押えてしまった。
門をはいると荒れ果てた小庭。
それについて背戸のほうへまわると、そこに夜目にも白く冷たく石で囲った大きな井戸があるのがお蔦の眼にはいった。
里好は再び振り返って、
「これだよ、驚いたかね」
と、いったかと思うと、やにわに変なことを始めた。足もとを見まわして、小石を一つ拾うが早いか、そいつを、ぽんと井戸の中へはうり込んだのである。
ぽちゃり[#「ぽちゃり」に傍点]という水音。何だか井戸にしては浅そうだ。
と、お蔦が思っていると、里好の声が耳近くで、
「裾《すそ》をぬらさねえように着物を引き上げるといいんだが、あんたはそうもゆくまい。まあ騒がずに、黙ってはいって来るがいい」
こういって里好は、裾を引き上げて井戸をまたいだ。井桁《いげた》の内側にちょうど足場になるような具合に、ところどころ石が欠けて、引っかかりの穴ができている。それを伝わって、水面までおりた里好は、ためらうことなく、片足をざぶり[#「ざぶり」に傍点]と水の中へ突きおろした。ほんの踵《くるぶし》ぐらいまでの水である。
水が濁っているので、昼間見てもちょっと深浅がわからないのだが、空の色や、井戸の上にのぞく木の梢《こずえ》を写して、どんよりとおどんでいるところ、上からのぞいた人は、まさかこんなに浅いとは気がつくまい。これでは井戸というよりも、盥《たらい》の底に、洗足《すすぎ》の水が捨て残っているようなもので、はいっても裾をぬらすに足らぬほどだ。
「おい」
井戸の底から里好が呼ぶ。お蔦も思い切って里好をまねて、井戸の内側へすべり込んだ。ぬるぬる[#「ぬるぬる」に傍点]とした苔《こけ》の触感とともに、腐ったような水の香が、ぷん[#「ぷん」に傍点]と鼻をつく。井戸の幅が狭いので、お蔦は手足を突っ張るようにして、そろそろとおりて行った。里好の両手がお蔦を抱いて、そっとその浅い水の中に立たせる。
「さあ、これからだ」
里好はこういって、ひときわ黒く苔のむしている眼の前の石を、ちょうど戸でもあけるように、力を入れて右へ引くと、――。
と、どうだ!
そこに人間一人楽に出はいりできる、黒い穴が口をあけたではないか。
秘密の集会所。姿見の井戸への通路である。
里好とお蔦は、手を取り合ってそこからはいり込んだ。真っ暗で何も見えはしないが、石室《いしむろ》のような狭い部屋であるらしいことと、足音のしないように、底に藁屑《わらくず》が厚く敷き詰めてあることだけはお蔦にもよくわかった。里好はお蔦を、ちょっと手で制するようにしておいて、それから闇黒《やみ》の奥をうかがって低い声で案内を求めた。
「お頼み申します――お頼み申します。駈け込みでございます」
すると奥のほうから、藁を踏む足音《おと》がかすかに近づいて来て、闇黒のなかでも一段と濃い人影が、少し離れて立った。
見ず聞かず――どこの何者かわかる機会があっても、わかろうとしてはいけないのが、この姿見井戸の定法だから、とみにはそばに近寄ろうとはせずに、これだけの秘密を知ってすでにここまではいって来た以上は、一味の者として、何の怪しむ必要はないと認めているもののごとく、その影が静かにいった。
「今、袋を持って来てやるから、待っておれ。何人だ? ああ二人だな」
影はそのまま引っ込んで行って、まもなく、その方角から、どさりどさり[#「どさりどさり」に傍点]と、重い布地《きれじ》が飛んで来て、二人の顔やからだを打った。お蔦は蝙蝠《こうもり》かと思って、ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたが、里好は慣れたもの、
「これ、これ!」
と喜びの声をもらして、そこらに落ち散った布を集めている。拾い上げてみると、黒い布を、ずんどう[#「ずんどう」に傍点]の袋に縫ったもので、頭から手足まですっかり包んで眼だけ出るようにできている。里好にいわれてそれを着けたお蔦は、何だか自分からこの世を離れて、全然別な世界へ来たような気がした。里好も、もう一塊の黒い袋と化している。二人は顧《かえり》み合って、袋の中でにっこり[#「にっこり」に傍点]した。
一つの袋が歩き出す。
他の袋がついて行く。
まるで、南海の怪鳥《けちょう》が行列を作っているようである。それはもうお蔦でもなければ、里好でもない。二人はただ、うばたまの闇黒にうごめく烏羽玉の果《み》の一つ二つだ。
木の下道のような暗い細いところを、あれで二、三十歩も行ったであろうか。
「下りだ、気をつけなさい」
という里好の声で、お蔦が足をすべらせないように木で張った梯子段《はしごだん》をおり切ると、眼の前の二間ほどの所に、荒筵《あらむしろ》が二枚だらり[#「だらり」に傍点]と下がっていて、その目を通して、何やら黄色い光が、地獄の夢のように、ぼうっともれている。
「お仲間がたくさんいますよ」
里好の声は笑っていた。
どうも不思議な御縁だねえ
こうしてお蔦が井戸の底の生活にはいったのは、何日前のことであろうか。
夜も昼もないここでは、日のたつのは数えようもなかったが、三つの食事を一日としても、もうだいぶんの日数がたっていなければならない。そのあいだに何が起こり、どんな出来事が発生したか。
何事もなかった。
ただ、同じ扮装《いでたち》をした三百人近くの人数と
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