た。
さあ、驚いたのは、すこし離れた道ばたにしゃがんでいた御免安兵衛だ。いよいよ始まったと思うから、とばっちりを食ってはつまらない。ごそごそはっていっそう黒やみの奥へ引っこんだ。ここなら大丈夫と膝を抱いて見物にかかる。見ていちゃ、こんな面白いものもまたとあるまい。
「さ! どっちもしっかり! ぬかるな、ぬかるな、竹刀《しない》じゃねえんだ、べらぼうめ、さわれあ赤え血が出るんだぞ」
安の字、頭の中でがんがんどなっている。審判役のつもり――いい気なものだ。
帰雁が銀二郎の右肩をかすめたと見えたとき、銀二郎のからだから黒いものがまき上がって、ひらひらと帰雁の刀身へまきついた。
「ちえっ!」と思わず守人の舌打ち。
銀二郎が羽織を脱いで、うしろざまに投げたのである。
さすがは一流に達した名人。
敵の多いわが身と知ってか、下にはちゃんと襷十字《たすきじゅうじ》にあやなしている。
両手をだらり[#「だらり」に傍点]と下げて、平々然たるものだ。
守人はもう胆《きも》がすわった。
ししずに羽織を落としている。
「どうしても、やる気か」
いったのは銀二郎だ。声に揶揄《やゆ》を含んでいる。
「むろんだ。抜け!」
守人は、刀にからんだ羽織を取って、ふわりと遠くへ捨てた。そこらに落ちて、再び足にからんではたまらない。
「うむ。そんなにこの首がほしいか」こういいながら、銀二郎は足もとの石ころを二つ三つ、注意深くけちらした。場のしたくである。
「なあ、篁」
「何だ?」
「おぬしとの手合わせ、久しぶりだなあ。故郷表《くにおもて》では、始終わしが稽古をつけていた。あれから、すこしは上達したか。こんなものは場数じゃよ。木剣のつもりでかかってこい!」
「よけいなことを――行くぞ!」
「お手柔かに、だ。はははははは。来いよ、さあ! 来いっ!」
柄《つか》にかけた右手が、ぴく[#「ぴく」に傍点]――と動いたと見るや、鞘《さや》走りの音もなめらかに、銀二郎は平正眼、やんわりと頤《あご》を引いて、上眼使いにぴたりときまった。守人は下目につけている。
「お!」
「や!」
双方、ひたひたと寄る。
ちりん[#「ちりん」に傍点]と鋩子先《きっさき》が触れ合う。
と、互いに、はね返るように離れて、
「つうっ!」
「たっ!」
「は!」
「ようっ」
無言。呼吸を合わせているのだ。
里見無念斉の双虎、いわば同じ巣を立った二羽の鳥だ。銀二郎は柔、守人は剛と手口こそ違うが、癖まで知り合っている仲だから、どっちも迂濶には打ち込めない。
「や! こいつあ見物《みもの》だ」
安兵衛はひとりで悦に入っている。
とこうするうち、面倒! と見たか、まず守人がいらだちはじめた。
た、た、たっと! 踏み切った拍子に十分に体のすわった突きの一手! 守人じしんが、一本の棒と化してとんで行った。
ちゃりいん!
払った銀二郎、右横に避けながら、滝《たき》落としの片手打ち、ただもう一筋の白いひらめきだ。袈裂《けさ》がけ――と見えたが、斬ったのは守人の袂《たもと》。時ならぬ黒蝶《くろちょう》が宙をかすめた。
守人は、いつのまにか片肌《かたはだ》ぬいで大上段。
「――とうっ!」
「や! 来い、こい、こいっ!」
銀二郎の秋水、いざなうもののごとく揺れ動く。
ち、ち、ちいと虫の声だ。
すうっ――銀二郎が爪立《つまだ》った。
とたんに、
「はあっ!」
と大声! ぱらぱらぱらっ! 深く守人の手もとに踏み込んだ。上下左右に幾十本の白線が旋弧する。飛躍する、回転する。虚! 実! 秘! 奥!
守人はどうした※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
やってる!
払う、押える、流す、縦横無尽にかわしている! と空を裂いた白光!
たちまち上がって、たちまちおりた。
「うぬ!」
二つの影、ぱっと左右に別れる。
「あ! 痛《つ》うっ――」
ともう、一人はどこか斬《や》られたらしい。
生き血の香は鉄錆《てつさび》のにおいに似ている。そいつがぷうん[#「ぷうん」に傍点]! と鼻をかすめるのだ。
「深傷《ふかで》か?」
きいたのは、守人の声だった。
「な、なんのこれしき! ははは」
さびしい笑いである。
「休もう。手当てをするがいい」
「いらぬ。ほんのかすり傷だ。肘《ひじ》だ」
「だが、血がひどいらしいではないか。おぬしを殺してしもうては何にもならぬ。所望なのは生きてるところをはねた首だ。待つ。血をとめてから、また往こう」
「そうか――かたじけない」
はっ、はっとあえぎながら、銀二郎は刀を引いた。で、守人も、帰雁を片手に、気を許して上体を差し延べた。
ところへ! うなりを生じた突風。
「卑怯《ひきょう》なっ!」
と叫んだ守人、冷たい物を肩口に感じて、思わず左手で押えながら、帰雁をかざしてあとへさがった。
狡猾《こうかつ》な遊佐銀二郎、相手の油断を突いておいて、今だ! と思うから早撃ちだ。畳みかけて打ちこんで来る。
あぶない!
守人があぶない!
と見るや、はばかりながら御免安も江戸っ児だ。どっちに味方するんでもないが、きたねえまねが大きらい。
「いやなことをしやがる!」
気がつくとたっていた。そして、再び気がつくと、そこに落ちてた丸太ん棒を引っつかんで、殺陣のまっただなかへとび出していた。
こいつ、とかく酔興だから損をする。
「さあ!」と安公、がなり上げたものだ。「卑怯なまねをさらしやがって! てえっ! こうなれあ俺が相手だ! こん畜生っ! 野ら犬め! ごまかし野郎め! てえっ! 日向水《ひなたみず》の鮒《ふな》ああっぷあっぷ[#「あっぷあっぷ」に傍点]のちょろちょろだい! 何が何でえ! 化け物侍! てへっ! どっちからでも斬って来やがれ!」
いうことははっきり[#「はっきり」に傍点]しないが、銀二郎はまずその早口に度胆《どぎも》を抜かれ、つぎに感心してしまった。
「邪魔ひろぐな。何だ貴様は?」
「何を! こうっ、高田の馬場の安さんだ!」
「どこの安さんと申す?」
「高田の馬場よ」
「それがどうした?」
「どうもしねえ。高田の馬場だから高田の馬場だてんだ」
「狂人《きちがい》だな――何だ、へんな物を持っておるな。植え木か」
「棒だ。泥棒につんぼ[#「つんぼ」に傍点]にしわんぼう、しわんぼうには柿の種とくらい。どうでえ! 驚いたろう?」
「たわけめ! そこのけ」
「どかねえよ。邪魔ならすっぱり斬ってくんねえ。あいにくまだ一度も死んだこたあねえんだ、てへっ! 切るなら斬りあがれ! 駄侍《だざむらい》め!」
「どうもあきれた奴だな。これ、町人、わしはな、十年この方親の仇敵《かたき》を求めて諸国を遍歴致し、今月今日というなき父の命日に、うれしやここでその仇敵にめぐり会ったのだ。あそこに倒れておるのがその仇敵だ。江戸の町人は侠気《おとこぎ》に富むと聞く。な、討たせてくれ。公儀へは追って届ける。さすればお前も、義に勇んだかどによってそこばくの下し物に預かるぞ。そこらは必ず俺が計ろう」
「何をいやんで! 親の仇敵たあ時代においでなすったね。うふっ、へそ[#「へそ」に傍点]茶もんだ。おいらああすこで始めから見聞きしていたんだぜ。ざまあ見やがれ!」
「そうか――では、余儀ない。斬る」
「面白え! やってくれ。てへっ! 一つ注文があらあ。片身におろして、骨つきのところを中落ちにするんだ。どうでえ、田舎侍《いなかざむれえ》の板場じゃあこう意気にあゆくめえ。ざまあねえや」
安兵衛、丸太を斜に構えて食いしんぼうなたんか[#「たんか」に傍点]を切っている。ほんとに斬りそうだったら逃げれあいい。足が早いし、この闇黒《やみ》の夜、ふっ[#「ふっ」に傍点]と消えうせるぐらい、安にとってはお茶の子さいさいだ。だからいやに鼻っぱしが強い。
銀二郎が見ると、守人は路傍にうつぶせに、じっと動かない。
この上は早くとどめを――とは思うが、御免安という変な奴が、眼の前にのっそり[#「のっそり」に傍点]といばっている。
いささか持てあまし気味で、銀二郎は不思議そうに安をみつめた。が、果てしがない! と考えたか黙ったまま振りかぶった一刀を、安をめがけて打ちおろそうとした間一髪、にわかに、乱れた足音が坂を登ってきた。
と知るや、急にあわて出した銀二郎は、守人も安もそのままにして、刀を下げたなりで、するする[#「するする」に傍点]とそこの影屋敷の門内へ吸いこまれて行った。
守人にかけ寄った安兵衛、傷は重そうだが、まだ息があるようだとみると、ひとり何事か決意したらしく、ぐったりしている守人のからだをかついで、影屋敷とは反対の側の草原へはいりこんだ。
隠れて介抱する気と見える。
このとき、坂下から急ぎ足に近づいてくる二つの人影があった。安がこっちから見ているとも知らずにその二人も影屋敷の門に消えた。
「ははあ! 三人ともこの屋敷へはいったな。裏はすぐ饗庭の庭につづいている。こいつあ臭《くせ》えぞ」
一時、守人を忘れて、安が向こう側をにらんでいると、また一人、いつのまにか闇黒《やみ》から現われて、その門前に立っている男がある。
暗いは暗い。が、何ということなしに、安の眼には親しい姿だった。で、音を忍んで声をかけてみた。
「親分――じゃあござんせんかえ」
「おう、安か。そんなところに何してる?」
「怪我人《けがにん》です。あの死に花の若衆で――」
文次は草を分けて近づいて来た。
「え? 死んだのか」
「いえ。どうやら見込みがありそうで」
「そうか。それあよかった。よく見てやれ。大事な身柄だからな――そりゃあそうと安、いま二人あの門へへえりやしなかったか」
「へえりましたよ。坂下から来た二人がね」
「うん。そうだろう。それが内藤伊織と帝釈丹三だ」
こういって文次は、草の上に腰をおろして、手短かに話し出した。
連雀町の津賀閑山方へ二人が押し込みにはいっているところへ文次が飛びこんで行った。そしてとうとうしまいに二人を相手に大立ちまわりとなったのだったが、文次は手当たりしだいにそこらの物を投げつけながら、火事だ、火事だ! と呼ばわった。すると、これにはさすがの二人も僻易《へきえき》して逃げ出したので、文次も続いて飛び出し、ここまで見え隠れに跡をつけてきたのだという。文次は笑った。
「おかげで閑山の店はめちゃめちゃだし、神田|界隈《かいわい》は火事と聞いて大騒ぎをやってらあ」
「親分」安が眼を光らせた。「この侍を斬ったのは、この人が[#「この人が」は底本では「この人を」]つけてたもう一人の侍だがね。そいつもあの屋敷へ逃げこんだ。それがね親分、肘を斬られてて血がたれてましたぜ」
「ふうむ。血を引いて行ったか」
「あい。明日その跡をたどってみやしょう」
「そうだ、夜が明けたら出直して来て、その血のあとを頼りによく屋敷の周囲《まわり》をあらためてみよう。今夜はこれで――安、ご苦労だが、その人をかついでってくれ」
文次と安、気絶している守人を肩に、ともかくその夜は帰路についた。
歩きながら、話し合っている。
「その二人づれの今夜の押し込みてえのが――ことによると烏羽玉組《うばたまぐみ》じゃあごわすめえか」
「われもそう思うか。実あおいらもそこらが見当だ。安! これあひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると大芝居《おおしべえ》だぜ」
井底に潜《ひそ》む黒衣のむれ
ここは井戸の底である。
といったばかりではいかにも唐突《だしぬけ》だが、井戸の下に広がっている茫漠《ぼうばく》たる大広間だ。
ところどころに青竹が立って、それに裸蝋燭《はだかろうそく》がさしてある。そのぼんやりした光で見ると、おびただしい人間の群れが、あるいは壁にそってすわり、あるいは床に寝そべりあるいは円形を作って立ち話し、あるいは忙しげにそのあいだを歩きまわっている。
三百人もいようか。
まるで海豹《あざらし》の大軍が、乗るべき潮流を待って北海の浜にひなたぼっこをしているようである。何たる奇観! なんたる異象!
しか
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