文次、思わずあっと叫んだ。


    うばたま組


   こころ二つにからだは一つ

 津賀閑山の古道具店、おもての大戸の一枚が一尺ほど引きあけられて、赤っぽいもれ燈《び》がぼんやり往来を照らしているんだが、通りがかりに何げなくのぞいた文次は、そのままぴったりそこへとまってしまった。
 闇黒《やみ》をすかしてゆく手に道を見ると、守人であろう、黒い影がすべるように進んでゆく。守人は遊佐銀二郎をつけているのだから、こっちのほうも逃がしてはならぬ。といって、閑山の家の中も――ただならぬようす。
 こころ二つにからだは一つとは全くここのことだ。文次はぐい[#「ぐい」に傍点]と御免安兵衛の腕を握って、見失わないように守人の跡へ瞳《め》を凝らしながら、
「安!」と耳打ち、「お前はどこまでもあのあとをつけて行け、饗庭の邸へ行くらしいが、何が起こっても俺が行くまで手を出すな」
「あい、承知しやした。して、親分は?」
「俺あちょっとこの閑山とこへ寄って行く」
「閑山とこへ? 戸があいてますね」
「うむ、押し込みらしいんだ」
「え! 押し込み※[#感嘆符疑問符、1−8−78]」
「まあ、いいってことよ。こっちは俺にまかしとけ、早く行かねえと見えなくなる」
「うん。そうだった。じゃあ親分――」
「気をつけてな」
 安の姿は、返辞とともにもう闇黒に呑まれていた。守人は銀二郎を、御免安は守人を、二組の尾行がもつれもつれて、こうして神田を出はずれて行った。
 あとに残った文次、そっと戸口にたたずんで家内《なか》の気配をうかがうと――、
 さながら仏事でも行なっているように、灯《あかり》がかんかん[#「かんかん」に傍点]ついて、人声がする。
 この夜ふけだ!
 しかも怪しいのはそれのみではない。呼吸《いき》を凝らしている文次の耳へ、陰深たる寂寞《せきばく》[#ルビの「せきばく」は底本では「せばく」]を破って、かすかに聞こえてくるのは、かの猫侍は内藤伊織のじゃらじゃら声ではないか。
「よし来た、一つ見届けてやれ」
 きっ[#「きっ」に傍点]と胸に決した文次は、手早く履物《はきもの》を脱いで、くるくると手ぬぐいで巻いて懐中すると同時に、跫音《あしおと》を盗んではいりこんだ。うす気味悪くしん[#「しん」に傍点]としている。
 店頭《みせさき》に行燈《あんどん》が一つ。
 昼間でさえ、あまり気持ちのよくない古道具屋の店だ。湯灌場者は死人の手汚《てあか》で黒ずんでいるし、ほかの古物も、長らく人間の喜怒哀楽を見て来ているようで、そこらの品の一つ一つが一廉《ひとかど》の因縁を蔵しているらしく思われる。そとの風がさっ[#「さっ」に傍点]と流れこんで行燈の灯をあおり立てたとき、壁の自分の影が大きくゆらいだのを見て、文次は何がなしにどきり[#「どきり」に傍点]――胸を突かれる思いがした。
 店のむこうが茶の間、話し声はそこからもれるのだ。なんとなく、あたりをかきまわす物音もするようである。
 文次は店を見まわした。灯の届かない隅々に闇黒がわだかまっているばかり、ここには異変は認められない。
 ――呼んでみようか?
 と文次が声を出そうとしたとたん、
「ばかを申せ。あるやつが取られるのはあたりまえだ。それに、拙者らといえども私慾のための盗みではないぞ、国事だ。公用の資金だ。わかったか。わかったらこぼすな、こぼすな。おとなしくしておれば生命《いのち》まで所望だとはいわぬ」
 しゃがれた低声《こごえ》、ゆうゆうと風呂敷《ふろしき》包みでもしばりながらの御托《ごたく》らしい。
 やはり! そうだ!
 強盗だ!
 不意打ちに飛び込んでやろう。機先を制するのがこのさい一番の上策。
「畜生、ふざけたまねをしやがって!」
 つぶやきながら、文次が上がり框《かまち》に足をかけた刹那《せつな》、
「えいっ!」
 肝腑《かんぷ》に徹する霜のような気合い、殺刀風を起こして土間の一隅から?
 白刃――体当たりでとび出した者がある。
 むろん賊の一人が見張りしていたのだろう。
 腕が延び過ぎて、刀は文次の背後へ走り、二つのからだがもろにぶつかった。
「てえっ!」
 と文次、きき腕取ってひた[#「ひた」に傍点]押しに押しかかる。敵には長刀《どす》がある。離れればばっさり[#「ばっさり」に傍点]だ。
「何だ? 手前は」
 返事はない、無言。無言で、取られた腕を引きもどしたから、文次はつられて前へよろめく。ところを賊のやつ、一間ほどうしろとびにすっ[#「すっ」に傍点]とんで、三尺の閃光《せんこう》、瞬間正眼に直したと見るや、
「往生しろ!」
 と一声、ぎらりかざした氷剣を拝み撃ちに来た。何のことはない。薪《まき》割りの秘伝だ。できる――といえば、できる。が、冴えないといえば野暮なさばきだ。
 文次は真っ二つ! と思いきや、どっこい! 賊の刀は上がり口の板をかんで、余勢がざあっ[#「ざあっ」に傍点]! と畳を切り開いたばかり。
 文次のからだはもう奥との通路の暖簾口にあった。と、そこに、覆面の黒装束が立っている。ふところ手だ。
 ぴたっ[#「ぴたっ」に傍点]! 顔と顔、文次と侍、しばしにらみ合いの体だ。文次のうしろには、一刀を取り構えた見張りの賊が、退路を断って凝然動かない。蒼白い文次の顔、そいつがにっこり[#「にっこり」に傍点]した。
「津賀閑山に用があって参りました者。そこをお通しください」
「閑山はおらぬ、用とは何だ」
「閑山はおらぬ? そんなわけはありませぬ。要談の約がありますゆえ、待っておりますはずで――」
「黙れ! おらんからおらんと申す。それともはいって、自身が見届けねば得心せぬというのか」
「閑山に会って話があります」
「閑山に会っても話はできんぞ」
「どうしてですね?」
「そのわけか。うん、見せてやる。こうだ!」
 つ[#「つ」に傍点]と侍が身をどかすと、狭い一間の行燈のそばに、閑山と飯たき久七、二人ともぎりぎり[#「ぎりぎり」に傍点]にしばり上げられて、おまけに猿轡《さるぐつわ》をかまされてころがっている。河岸《かし》へ鮪《まぐろ》が着いたようで、あんまりほめた景色《けしき》じゃない。
 文次は笑い出した。
「おやんなさったね、お侍さん」
「わかったか」と覆面の侍げらげらと咽喉《のど》を鳴らした。文次には記憶《おぼえ》のある、小癪《こしゃく》にさわる音声だ。
「どうだわかったか」
「わかりました」
 いいながら、文次、ちら[#「ちら」に傍点]と店の賊へ眼をやって、
「わかりましたよ、内藤さん、ずいぶんあばれますねえ」
「な、何だと? 内藤? 内藤とは何だ?」
「内藤とは内藤、内藤伊織だ。はっはっは、妻恋坂殿様の御用人、あんまり性《たち》のよくねえ赤鰯《あかいわし》さ。はっはっはは」
「ぷうっ! おのれ! 汝《なんじ》はここの手代だな」
「汝は、と来たね。だがね内藤の旦那、あっしあ手先だよ」
「なに、手先?」
「さよう、十手をいただいてるんだ。へっへっへ、いやな商売、どうせ畳の上じゃあ死にませんね」
 この文次のことばが、終わるかおわらないかに、たあっ――! と飛びすさった猫侍内藤伊織、にやり[#「にやり」に傍点]と笑って、店にいる抜刀へ声をかけた。
「丹三よ、かかれ! 斬れ、斬れ! 斬っちめえ!」
 月は暗い。雲があるのだ。

   用というのは首がほしい

 その薄い光で見ると、ほろ酔いきげんの遊佐銀二郎、謡曲《うたい》か何か低声にうなりながら、妻恋坂から立売坂《たちうりざか》へさしかかってゆく。あとから守人が、これはかげを選んでつけているのだ。御免安兵衛は、この二つの人影へ、焼けつくような視線をすえて、陶山流でいう忍びの歩行稲妻踏み、すなわち、路の端から端へと横走りながら、しばしとまってまた斜めに切り進んで行く。
 安兵衛、尻をからげて、両手を膝に、やみを通して見極めをつけておいては、つつつと小走り、まるで鼬《いたち》だ。これではよもやみつかるまい。
「げっ! 影屋敷だぜこれあ。影屋敷へ御帰館と来やがらあ。それあいいが、あの二番目の侍だ。あいつがこう乙な声を出して、率爾《そつじ》ながらしばしお待ちを願う、お呼びとめありしはそれがしか――なんてことになると面白えんだがなあ。仇敵討《かたきう》ちだぜ、きっと」
 口のなかでぶつぶついっては、お手のものの稲妻踏みだ。のんきな野郎。
 月光が水のようだ。雲は切れたらしい。
 立売坂の中腹、ちょうど饗庭の影屋敷のすこし手前に当たって、左手《ゆんで》に草原を控えたちょっとした平地がある。遊佐銀二郎がその地点へ踏み入れたときだった。かれはうしろに当たって、低い太い声をはっきりと聞いた。
「遊佐氏、遊佐氏ではないか」
 自分の名前というものは争われない。聞かぬふりをしようとしても、足のほうが正直だ。自然にその場へとまってしまった。勢い、振り向かざるを得ない。
「誰だ?」
「拙者だ、守人でござる」
「守人? ふうむ、あの篁か」
「さよう」と黒い影が近づいてくる。「いかにもその篁守人。お久しぶりでござる」
「や! これは篁、珍しいところで――どうじゃなその後は! 達者で重畳だな」
「――」
「おい、おぬし篁か。篁じゃな」
「遊佐、捜したぞ」
「何? わしをさがしたと? 要でもあるのか」
「おう、ある。大いにあるのだ」
「何だ、いえ」
「いうことではない。おぬしごとき犬に、もう何を申し聞けることはないのだ」
 遊佐銀二郎、一歩下がって羽織の紐《ひも》に手をかけた。足《そく》のひらきがもう居合腰にはまっている。
「では、用というのは、何だ?」
「首だ!」
「首? この、遊佐銀二郎の首か」
「いかにも!」
「わっはっはっはは」笑い出した銀二郎である。「でかしたぞ。首とはよかった。うむ、持って行け、といいたいが、こんな古い薄ぎたない首でも、おれにはまだすこうし要があるでな」
「未練なことを申すな。そっちに、拙者のみといわず、同藩の者には首をねらわれる覚えがあろう?」
「これこれ、篁、そ、そんな堅苦しいことをいうものではない。おぬしはまだ若い。若いから一本調子だ。だがな篁、世の中はそうむき[#「むき」に傍点]になってもいかんものだぞ。
 なるほど、書を読み眼を開いて大勢を観ずる者、誰しも一意向、一家言を有するのは当然だ。それによって討幕もよい。勤王《きんのう》も面白かろう。佐幕もまた妙じゃ。が、しかしなあ、世のことおおむね理屈《りくつ》ではない。まわりまわって帰するところ、要するにこの身一個のやりくりだ。な、篁、そうではないか」
「えいっ! この期《ご》に及んで何を――」
「まあ、聞け。斬るのはいつでも斬れる。それよりも心の持ちようだ。思い詰めれば何事も途《みち》のふさがるものだが、一転機に立って勘考方《かんがえかた》を変えてみれば、なんだつまらねえ、何もやきもき[#「やきもき」に傍点]することはない。他人《ひと》は他人、自分は自分だ――さ、こうなると、身辺洋々として春の海のごとし。なあ、要するに融通一つだよ。当節の世の中だな。武士といえども御他聞にもれずさ。利口になれ、利口に」
「ちっ! 変心に理を構える見苦しさ。遊佐!」守人の声は友情に泣いていた。「遊佐! お、おぬし、魔がさしたか。剣をとっては里見先生の道場に、そ、その人ありと知られたおぬしではないか――」
「いうな。昔のことだ」
「また、相良《さがら》先生の教えをも朝夕親しく受けた身ではないか。一時の夢か。ゆ、夢ならさめてくれ。これ、遊佐、守人が拝むぞ」
「はっはっは、玄鶯院は国賊じゃよ。西方の魔術に魅入《みい》られたあれは逆徒じゃ」
「なな、何だと?」
「篁、おれは酔うとる。何事も酒がいわせることと思ってくれ。もとの同志の方々へ、よろしくと、これだけは頼む。どりゃ、失敬しようか。夜風は寒いな――篁さらばじゃ」
「ま、待てっ! 待たぬか」
「黄口の乳児、談《かた》るに足らぬよ」
「その乳児の一刀、受け得るものなら受けてみよ!」
 叫んだ守人、その前にすでに、帰雁は銀二郎を望んでおどり出てい
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