わからない。ただ、その筋の手へ渡されれば二度と見ることもあるまい浮世の光を、相手がしてくれるままに、ただこうやって楽しんでいるばかりだ。
 こうして何日かたった。
 文次は暇さえあると二階に守人を見舞い、守人たちを動かしている大義をたたいて、自分の心の去就を定めようとするもののようだ。守人もはじめのうちは、相手が幕府のいぬ[#「いぬ」に傍点]なので、密事のもれるのを恐れ、堅く口をつぐんでいたが、だんだんと文次の心のあるところがわかってみると、彼は進んで正道を説き、同志の計《はかりごと》の一端をさえ話して聞かせるのだった。
 もう、それを聞いて、どうかしようという文次ではない。
 するどころか、できることなら自分も車をまわす力に手を貸して押してみたい気さえしている。世のため、というと何だか少し縁遠いようだが、それもただちに自分のことなのだ。文次にはそれが、はっきりとわかって来た。
 そうなって来たある夜。
 おそく寝る下町もすっかり[#「すっかり」に傍点]大戸をおろして、人も草木も深沈と眠る真夜中。
 突如!
 浮世小路、いろは寿司の表を、割れんばかりにたたく黒い影。ちょうど下に寝ていた文次が、飛び起きて出たが、すぐにはあけない。
「誰だ、誰だ、今ごろ。何の用だ?」
「その、ちょ、ちょっと、おあけなすって。――おあけなすって。ここを。一大事、一大事でございます」
 と、いう女の声。
 はて――どこかで聞いたような、と思った文次が、細目に戸をあけてのぞくと、そこを外から引きあけて、ころげ込んで来た女がある。肩息で頭髪《かみ》を振り乱し、遠くを駈けて来たものらしく、はいると同時にべたり[#「べたり」に傍点]となったのを見ると、あの、一足違いで、三味線堀の里好の家から逃げられてしまった人魚のお蔦だ。
「おお、お前さんは!」
「ええ、あの、私のほうはあとで存分にお縄をちょうだい致しますから、ちょっと、私のいうことをお聞き下すって――ああ、こういうまも、もどかしい――親分様の上に大変が迫っております」
 水をやって落ちつかせたうえ、女のいう所を聞いてみて、さすがの文次もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。
 女は、今夜うばたま組の選にあたって、井戸から出されたというのである。しかもその仲間というのが、手枕舎里好と遊佐銀二郎!
 里好は井戸を出るとすぐ闇にまぎれて、その掏摸《すり》のたまりの新網の瑞安寺《ずいあんじ》へ逃げてしまったが、遊佐銀二郎だけは、うばたま組の頭の命のままに、今にもここへやって来るというのだ。
 ここへやって来てどうする!
 いうまでもなく文次の命を目的に。
 と、聞いて文次は、手早くそこの戸へ心張りをくれると同時に光る眼で女を見すえて、
「して、お前さんそれをしらせに駈け抜けて来てくれたってえわけですかえ?」
「はあ、止めようと思って争いましたけど、きかずに来るもんですから、私は近道をして一足先に参りました。――どうぞお支度を」
「すると、来るのは一人ですかえ?」
「ええ遊佐銀二郎という――」
 と、このとき、その女のことばをおうむ返しに、
「何? 遊佐? 遊佐が来る?」
 と、いう声に二人が驚いて振り向くと、いつのまにおりて来たのか、文次の袢纒《はんてん》に、愛刀帰雁を引っつかんだ篁守人の立ち姿!
 一目見るよりお蔦はころぶように駈け寄って、
「貴方《あなた》は守人様! お久しうござります。ど、どうしてここに。――」
 守人はわれとわが身を疑うもののごとく、しばし女の顔をみつめていたが、くずれるように、上がり端《はな》へあぐらをかくと、そのままお蔦を引き寄せて大刀を持つ手で、ひしと抱き締めながら、
「お蔦か。おお! お蔦だな。お蔦だな――どうしておった。痩せたな。苦労したか――苦労したか、あいたかったぞ」
 声の出ないお蔦、守人の膝にすがって、身をもんで泣くばかり。
 仔細《しさい》ありと見てか、場をはずした文次、再び帰ったときは、手に脇差《わきざし》の鞘《さや》を払って、
「さあ、さあ、つきたての餅みてえにくっつい[#「くっつい」に傍点]ているときじゃありませんぜ。ここでね、文次もちょいと殺生のまねをしなくっちゃならねえ。お二人は二階へ。――」
 そのことばの終わらないうちに、戸の外で、銀二郎のだみ声だ。
「いろは屋さんはこちらですか。いろは屋の親分!」
「はい」
 文次は静かに答えて守人の顔を見る。涙にぬれるお蔦を押しやった守人、ひそかに帰雁を引き抜いて、あけるがいい、あけるがいい――と目くぼせ。
「あんたは怪我人だ。なあに、あっし一人で大丈夫――」
「遊佐なら人手を待たぬ。俺《わし》の心を察して、俺にまかせてくれ」
 命がけの仕事を二人は争っている。

   飼い犬に手をかまれるとは

 ぱっ! 文次が戸をあけた。
 さっ[#「さっ」に傍点]と流れ出る黄色い光のなかに、向かい合って立った守人と銀二郎。
 銀二郎にとっては意外の意外だ。思わず一歩下がって、
「やっ! 汝《なんじ》は篁!」
「またあったな」
 にっこり[#「にっこり」に傍点]した守人が、つかつかと、戸外へ出ると、銀二郎は押されて往来の真中へ。――
 たちまち!
 斬り込んで行った帰雁、斜になって流したはずの銀二郎の構えが遅かったか、ないしは足がくずれたか、右の肘《ひじ》から脇腹へかけて一太刀《ひとたち》受けた銀二郎。
「ううむ!」
 と、うなるとたんに思わず刀を取り落とす。そこを、ばっさり[#「ばっさり」に傍点]と唐竹割《からたけわ》りというが、そのままに斬って下げた。
 あざやか!
 とどめを刺した守人が、星空を仰いで死骸の着衣《きもの》で帰雁の血糊《ちのり》をぬぐったとき!
 わっとわき立った無数の人声。今までどこに伏せっていたものか、御用提灯の明りが、四方《あたり》の暗黒を十重二十重《とえはたえ》に囲んで、御用! 御用! の声も急に、邦之助の率いる捕手の一団が、雲のごとく、霧のごとく、群がり、どよめいて、迫り囲んだ。
 ぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした文次、守人を家へ引きずり込んで、立ち騒ぐお蔦といっしょに、折から起き出たおこよに預ける。そして早口におこよの耳へ。
「姉さん、とうとう来たぜ、いつも頼んであるようにしてくれ」
 一言いうと自分はすぐに戸を閉めて、行燈を吹き消そうとしたが、そのときは、もう税所邦之助が、表を乱打している。あけると、身拵《みごしらえ》厳重に八丁堀の役人がものものしく押し込んで来た。
「文次、貴様の所に、篁守人がいると聞いてもらいに参った。重罪人をかくまった貴様も同罪、しょっぴいて行くからそう思え」
 その邦之助のすぐうしろに、にやり[#「にやり」に傍点]と笑っている御免安兵衛の顔を見つけて文次の腹は煮え返った。
 飼い犬に手をかまれるとはこのこと。
 どうもようすが変だと思ったら、御免安の奴、訴人をしたのだ!
 そんな者はおりませぬ。お疑いなら家探しを――となって邦之助の一行が狭い家を見まわるまでもなく、すぐに怪しい一人の男が見つかった、職人風の頭で蒲団《ふとん》をかぶっている。
「何だ、この者は?」
「新規に雇い入れた寿司の職人でございます。握り三年と申しましていい職人はなかなかおりませぬが、此奴《こいつ》はなかなか使えそうで。――」
「起こしてみろ」
 蒲団を蹴上げると、すっかり職人風に作った守人が寝ている。が、安がいるから何にもならない。文次の憤怒《ふんぬ》と恨みをこめて見た眼を無視して、安はとんきょうに叫んだ。
「ああ此奴です! 此奴だ! 此奴だ! 此奴が水戸の篁守人、顔にも覚えがあるし、肩をしらべれば、傷のあるのが何よりの証拠。――」
 おお、そうだ――と邦之助の手が、寝ている守人の肩へ伸びた刹那《せつな》、もうだめと思ったか、むくり[#「むくり」に傍点]と起き上がった守人の手が夜具の下へ行ったかと思うと、隠していた帰雁が、白刃《はくじん》一|閃《せん》! おどり出たと見るまに、早くも捕手の一人、血煙立って倒れる。
 同時に、文次の手には脇差、部屋の隅にふるえていたと見せかけたお蔦といえども剛の者だ。護身の短刀を手に――ここに深夜、殺剣の乱陣は開かれた。
 行燈は消えて真の闇。
 捕手の群れを相手に、守人、文次、お蔦の三人がここを先途と立ち働く。
 踏み鳴らす足音、打ち込む気合い、魂切《たまぎ》る声、火花、白閃――。
 そのあいだに四つの影だ、手を引き合うようにしていろは屋の物干《ものほし》から外へのがれ出た。
「やあ、い、いないぞ」
「逃げた、逃げた!」
「おお、安兵衛が斬られている」
「うむ、御免安兵衛が。みごとからだが二つになっているなあ。それにしても守人と文次へ一刻も早く手配りを。――」
 という声々をうしろに聞いて、文次と守人、お蔦、おこよの四人は、すでに闇に呑まれていた。

   烏羽玉の闇に朝が来た

 それからまもなくだった。
 新網の瑞安寺では掏摸の故買《けいず》の市が立って、神田連雀町の湯灌場買い津賀閑山が、江戸中の掏摸のすって来た煙草《たばこ》入れ、頭の物、薬籠などを競《せ》っていると、その場の宰領手枕舎里好のもとへ、人魚のお蔦が駈け込んで、これからいろは屋文次と、篁守人を先頭に、一挙して姿見の井戸へ押しかけ、うばたま組をあばこうという――よかろう、面白かろうというので、里好もおどり立った。
 雲州、江州、遠州、なんかという強い乾分《こぶん》がそろっている。本堂から方丈へかけて寝泊まりしたり、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]している親分乾分の掏摸を集めると百人近い人数になった。それが夜明けへかけて、湯島の姿見の井戸へおのおの入口で黒い袋をもらっては保護を求めるような顔をして、二、三人、四、五人ずつはいり込んだ。
 津賀閑山もその一人だった。
 すっかり一同がはいり込んだのを見すまして、手枕舎里好がいきなり黒い袋を脱ぎ捨てるのを合図に、一同、袋をかなぐり捨て用意の獲物々々をふるい、周囲の三百近い黒い袋に打ってかかった。
 姿見の底の割れる日が来たのである。
 井底の乱闘は、乾分の掏摸などにまかせておいて、寄せ手のおもだった人たちは、奥の垂幕からかけ上がって、突如として白い袋を襲った。饗庭亮三郎である。
 とわかると、それは国表の水戸で、守人の父篁大学を斬った守人にとっては親の仇だ!
 内藤伊織や、帝釈丹三を片づけてしまって、里好と文次とお蔦が、看視している真ん中に、刀を与えられた饗庭亮三郎、悪鬼のごとき形相で、孝子守人の刃を受けかねている。
 陽が上がった。
 烏羽玉の闇は消えるであろう。
 近く、三月三日を期して、水戸の志士が桜田門外の井伊大老を要撃することは、文次にはわかっているが、彼はもう、幕府の密偵《いぬ》ではなかった。
 ちょうどこの時刻、相良玄鶯院は、へらへら[#「へらへら」に傍点]平兵衛を連れて雲水の旅に出ようとしていた。そして、ただ気がかりな新太郎を守人に托そうとして、守人の帰りを待っているが、新太郎が守人を通して、お蔦にあえば、お蔦としては親子としての覚えもあろう。が、それは、お蔦と守人にとって新しく生きる道へのさまたげとはなるまい。
 守人が、帰雁に饗庭亮三郎の血を塗ったとき、下から里好の乾分の一人が上がって来て、笑いながらいった。
「みんな片づきやしたよ。もう、烏羽玉組は全滅でさあ」
 朝の光が、抱き合ったお蔦と守人の上に落ちた。



底本:「巷説享保図絵・つづれ烏羽玉」立風書房
   1970(昭和45)年7月10日第1刷発行
入力:kazuishi
校正:久保あきら
2009年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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