うねえ?」
 内儀はうさん臭そうに、女をすかし見て黙っている。
 女は懸命。
「これから本所へ行きたいんですけれど――」
「本所ならお前さん、こんなほうへ来ちゃあ大変なまわりですよ」内儀が口を開いた。「ここは――」
 といいかけたが、とたんに、何を見たか、内儀は驚きあわてて、店へ飛び込んで、ぴたり戸をおろしてしまった。
 あれ!
 振り向くと、今来た坂を、黒い人影がばらばらばら[#「ばらばらばら」に傍点]と駈けおりて来る。
 追っ手だ!

   剣光影裡春雨冷

 しとしと[#「しとしと」に傍点]と春の夜の小雨が煙っている。
 ほどよく水を含んだ土は、足駄《あしだ》の歯にこころよい。
 歩きたい晩である。
 割り下水の方来居、相良玄鶯院の宅をあとにした篁守人は、愛刀帰雁を落とし差しに、片手に傘《かさ》を傾けて、暗い裏町づたいに大川の縁へ出た。
 埋堀《うめぼり》のあたりらしい。
 杭《くい》を洗って流れる黒い水が、ざぶうり、ざぶり――音を立てている。
 対岸はお米蔵、屏風《びょうぶ》を立てならべたような甍《いらか》が起伏しているなかに、火見櫓《ひのみやぐら》などが空明りに浮いて見える。
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