た。ほんの一瞬間、が、人の気はむこうへ取られて、駕籠はちょっと物かげになった。
 と見るや、すばやく履物《はきもの》をそろえて、女はすこしも取り乱さずに、するり[#「するり」に傍点]と駕籠を抜け出ると、べつに跫《あし》音を盗むでもなく、鷹揚《おおよう》に眼の前の一軒の店へはいって行った。
 ほの暗い古道具屋の土間。
「いらっしゃいませ」
 茶筌《ちゃせん》頭の五十|爺《おやじ》、真鍮縁の丸眼鏡《まるめがね》を額部《ひたい》へ掛けているのを忘れてあわててそこらをなでまわす。
「あの、しばらく」
 とそれを制した女、にっと白い歯を見せたかと思うと、表からは見えない戸の内側へ、ぴったり蝙蝠《こうもり》のようにはりついた。
 老爺《おやじ》はあっけにとられている。
 まず大八が通り過ぎた。
 すると、例の悪しつこい仲間奴《ちゅうげんやっこ》が、遠くに駕籠をにらんで立っている。駕籠は駕籠だが、これはもう藻抜けのかご[#「かご」に傍点]だ。しかし、奥山からここまで女をつけて来るなんて、いったいこの男は何者だろう?
 そういえば、かくまで男の手からのがれようとする女も――?
 嬉し野のおきんも眉唾者
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