出したが、これは向こう側に人がいるのだろう。いくら怪しい家でも唐紙がひとりで動くわけはない。
 とはいえ、この空家にさっきからの人声。さては、鬼が出るか蛇が現われるかと、文次と安は上半身を前へかがめて互いに充分な気配り。何かは知らぬが、相手しだいではもちろんどんなにでもあばれるつもりだ。
 と、さらり、襖があいた。
 縁から射す未《ひつじ》の刻の陽をまともに浴びて、ひとりの若侍が立っている。
 ぞろりとした着流しに長い刀《やつ》をりゃん[#「りゃん」に傍点]ときめて、所在なげに両手を帯前へ突っこんでいるのだが、それが、早い話が若様御成人といった形で、このところすくなからずあっけない感じだ。
 文次はほっ[#「ほっ」に傍点]と息をもらした。気負いかかっていただけにいっそうきょとん[#「きょとん」に傍点]として、取って付けたようなおじぎをすると、侍はもうこっちの部屋へ踏み込んで来て、二人の鼻っ先に迫っている。
 その顔を見て今度は文次、思わず、
「や! これは!」
 と心中|驚愕《おどろき》の声をあげた。
 まるで歌麿《うたまろ》の女である。月の眉、蕾《つぼみ》の口、つんと通った鼻筋に黒み
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