で引いたような一抹《いちまつ》の雲が、南風《みなみ》を受けて、うごくともなく流れている。
 今そこらをはきおわったところであろう。狭い庭の隅に、去年の落ち葉をあつめて小さな塵塚《ちりづか》ができている。
 永日閑居とでも題したい、まことにのんびりした図。
 ここ本所割り下水といえば小役人と浪人の巣だが、その石原新町お賄陸尺《まかないろくしゃく》のうら、と[#「と」に傍点]ある巷路《こうじ》の奥なるこの庵室は、老主玄鶯院の人柄をも見せて、おのずから浮世ばなれのした別天地をなしている。
 白髪《しらが》を合総《がっそう》に取り上げた撫付《なでつ》け髷《まげ》、品も威もある風貌、いわば幾とせの霜を経た梅の古木のおもかげでこの玄鶯院と名乗る老翁《おやじ》、どうもただの隠者とは受け取れない。
 遠くの物音に耳を傾けるように、たとえば世の中の動きを聞きとろうとするように、老人は態手にもたれて立っている。
 近所の道場に、お面お小手と稽古の音がする。
 雨のような日光――。
 やがて老人はうしろを振り返って低声《こごえ》に呼んだ。
「守人《もりと》殿、守人殿」
「は、はい」家のなかから含み声の返事。
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