の空にただよっているのだ。
「いけねえ!」
 つぶやいた文次、安を促してあとずさりしようにも、これが不動金縛りというのか、足がくぎづけになって身動きが取れない。
「動くな、逃げようとて逃がしはせぬぞ」
 どこからか見ているものとみえて、声は静かにつづける。
「そのほうども何用あって参った。いやさ、誰に頼まれて当屋敷へ踏み込みおった?」
 ひしひしとあたりに人体の気を感ずる。四方八方から眼が光っているようだ。迫る鬼気《きき》に呼吸《いき》がかたまって、二人はもう額に汗をかいている。
 そこへ、一枚あけ放した戸から、風とともに吹き込むおびただしい桜の花びら――花ふぶきだ。
 さらさら[#「さらさら」に傍点]と生あるごとく、畳をなでている。
 散る花の命。
 文次は手を握りしめた。
 二寸、三寸、五寸、むこうの襖が、すべるようにきしむように、見えぬ手によってあきつつある――。

   青山夢に入ってしきりなり

「また、春じゃのう」
 相良玄鶯院《さがらげんおういん》は、熊手を休めて腰をたたいた。ついでに鼠甲斐絹《ねずみかいき》の袖無着《ちゃんちゃんこ》の背を伸ばして、空を仰ぐ。刷毛《はけ》
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