いる。
朝から酒というのもちと変だが、これにはわけがある。
ほかでもない。
公儀のことは文次などにはよくわからないが、彦根《ひこね》様が大老職について、以前《まえ》から持ち越していた異国との談判、つづいて何だかんだと鼎《かなえ》のわくような世のさま。今にも黒船が品川の海へ攻め寄せて来て御本丸《ごほんまる》へ大砲をぶっ放すことの、いや、それより先に江戸に大戦《おおいくさ》がおっぱじまるのと、寄るとさわると物騒な噂《うわさ》ばかり。
そういえば、毎年おりるお堀の鴨《かも》が今年は一羽も浮かんでいない、これは公方《くぼう》さまの凶事をしらせるものだ。なお、夕方|永代《えいたい》の橋から見ると羽田《はねだ》の沖に血の色の入道雲が立っているがあれこそ国難の兆《しるし》であろう――流言|蜚語《ひご》、豆州《ずしゅう》神奈川あたりの人は江戸へ逃げ込むし、気の早い江戸の町人は在方を指して、家財道具を載《つ》んだ荷車が毎日のように日光街道、甲州街道をごろごろ、ごろごろ、いやもう、早鐘一つで誰も彼も飛び出す気だ。
恐怖の都。
国を挙げて騒擾《そうじょう》の巷《ちまた》。
この間、幕府が一番手
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