ルトのピアノのパートを、やけに弾ずることが多かった。
彼女のこの振まいは、必ずしも夫に対するあてつけばかりではなかったらしい。
こんな時に、夫の直一はますます陰気になって行った。
ついに、医者の注意によって毎朝ある一定の時間を散歩に費やさなければならないと云うことになって、永田町の自宅から徒歩で日比谷公園を一周して来ることにした。それは十二月頃のことである。
年があけて、再び夏が来た。吉田の死んだ月が又来た。丁度、その月だった。中条直一は突然思いがけない禍に出会った。
彼は自動車に轢《ひ》き殺されたのである。
或る朝、身なりのいやしくない紳士体の男が、西日比谷検事局にあわててとび込んで来た。人を轢いた。いやあの男が自分の車で自殺したというのだ。
居合わせたH署の巡査が早速行って見ると、公園の検事局に相対している入口から約五十間ばかり中に行った道路に、おびただしい血汐を流してこれも一見紳士風の男が自動車に頭を轢かれて即死して居る。自動車は反対の帝国ホテル側の入口から左側を通行して来たらしく、西側に車首を向けて止って居る。
「運転手はどこに居るのか」
と聞かれて、とび込んで
前へ
次へ
全28ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
浜尾 四郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング